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成長と変化がなければ流されて終わります

[列王記 第一 15:1,2,3]

ネバテの子ヤロブアムの第十八年に、アビヤムがユダの王となり、エルサレムで三年間、王であった。彼の母の名はマアカといい、アブサロムの娘であった。彼は、かつて自分の父が行ったあらゆる罪のうちを歩み、彼の心は父祖ダビデの心のように、彼の神、主と一つにはなっていなかった。

今日の聖書箇所
I列王15:1〜8

今日も列王記から恵みをいただいていきましょう。

レハブアム王の次に建てられたアビヤム王について短く評価されています。その統治は3年間で終わってしまい、父レハブアムと同じ罪を犯しただけでした。

そして父レハブアムと同じように北イスラエルのヤロブアムとの戦いが続きました。

[列王記 第一 15:7]

アビヤムについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。アビヤムとヤロブアムの間には戦いがあった。

先代と同じ問題が続いたという事です。アビヤム王は何もしないまま、ただ同じことを繰り返して、その人生はあっという間に終わってしまったのです。

そのようなアビヤム王に対する聖書の評価はやはり否定的です。アビヤム王はただ同じ事、同じ罪を繰り返していてはいけなかったということです。

先代のレハブアムから続く問題の原因は何か?その問題を解決するためには何をしなければならないのか?レハブアムから受け継ぐべきものは何か?受け継いではいけないものは何か?そういったことを考え、国を強くし、民に平安が与えられるようにリーダーとして挑戦し、絶えず変化し、成長することを追い求めなければならなかったのです。

しかしアビヤムは全くそれをせず、ただ同じ事を繰り返してしまったのです。同じ事を繰り返すことのほうが、変化し挑戦することよりはるかに楽だからです。

同じ罪を繰り返し、同じ事を繰り返しているとその人も、共同体も確実に弱り、衰えてしまいます。表面的には同じように見えても、霊的にはいのちを失い、スカスカになってある時、全てが崩れ始めてしまうのです。

私たちもこれではだめだと分かっていても仕方がない、しょうがないと同じ事を繰り返して、同じ問題で悩み、同じ試練で苦しむことが多いのではないでしょうか?

しかしそれが分かっていてもどうすることもできないというジレンマに苦しむのです。私たちもまた自分では変わることができない者たちです。そのような私たちが変えられ、成長していくことができるには主の恵みをいただくしかないのです。

アビヤムが同じ罪を犯し続け、何も変わらなかったにも関わらず、ダビデ王家にはなお主の恵みと憐れみが注がれ、ダビデに対する主の約束は成就していきます。

[列王記 第一 15:4,5]

しかし、ダビデに免じて、彼の神、主は、彼のためにエルサレムに一つのともしびを与えて、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。それは、ダビデが主の目にかなうことを行い、ヒッタイト人ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられたすべてのことからそれなかったからである。

弱く罪深く変わることのできない者にも注がれる主の恵みと憐れみの深さに驚きます😭

このようにダビデ王家に主の恵みと憐れみが注がれたように私たちにもまたダビデの子孫として来られたイエス・キリストによって限りない恵みが注がれるのです。

[マタイの福音書 1:1]

アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。

[ヨハネの福音書 1:16,17]

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

私たちは時に、自分の罪深さと弱さに絶望してしまいます。しかしそのような私たちに恵みを注ぎ、そのような私たちが変えられ、成長することができるようにとイエス・キリストがこの地に来られ、その私たちのどうすることもできない罪と弱さと同じ事を繰り返してしまう呪いを引き受け、十字架で血を流して死なれ、復活して永遠のいのち、聖霊さまといういのちを与えてくださったのです。

私たちは自分で変わることはできません。しかしただこの主の恵みによって聖霊さまのいのちの力によって栄光から栄光へと変えられていくことができるのです。

その恵みをいただくために必要なことが悔い改めです。

ここでダビデに対して列王記はとても高い評価を与えています。しかしダビデの人生にもウリヤの妻、バテ・シェバ事件を始め多くの罪と失敗があったのです。それにも関わらず、ダビデが一生涯、主が命じられたことからそれなかったと言われるのはダビデが真実に悔い改めたからです。悔い改めを通してその全ての罪が洗い清められ、ダビデは主の御前に義なる者、正しい者と認められたのです。

私たちもまた同じ罪を繰り返して変わることができない弱さを正直に認め、悔い改め、主イエス・キリストの限りない恵みにすがるなら、私たちもまた聖霊さまによって変えられ、成長していく恵みが日々注がれていくことになるのです。

しょうがない、仕方がないという言い訳して流されて終わりになるのではなく、このままではだめだと目を覚まして悔い改め、主の血潮の恵みと聖霊様の力によって変えられ、成長させられていく者となりたいものです。

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