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人間の考えと神の計画

[列王記 第一 12:26,27,28,29,30]

ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はダビデの家に帰るだろう。
この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえを献げるために上ることになっているなら、この民の心は彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」そこで王は相談して金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もうエルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる。」それから彼は一つをベテルに据え、もう一つをダンに置いた。このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンまで行った。

今日の聖書箇所
I列王12:21〜33

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

レハブアム王は北部十部族の反乱を鎮圧し、統一王国を回復するため18万人もの軍隊を招集し、戦いに出ようとします。しかしそれを預言者によって止められるのです。

[列王記 第一 12:21,22,23,24]

レハブアムはエルサレムに帰り、ユダの全家とベニヤミンの部族から選り抜きの戦士十八万を召集し、王位をソロモンの子レハブアムのもとに取り戻すため、イスラエルの家と戦おうとした。すると、神の人シェマヤに次のような神のことばがあった。「ユダの王、ソロモンの子レハブアム、ユダとベニヤミンの全家、およびそのほかの民に告げよ。『主はこう言われる。上って行ってはならない。あなたがたの兄弟であるイスラエルの人々と戦ってはならない。それぞれ自分の家に帰れ。わたしが、こうなるように仕向けたのだから。』」そこで、彼らは主のことばに聞き従い、主のことばのとおりに帰って行った。

レハブアムはようやく自分の願いや思いに反する状況の中にも神のご計画があることを悟り始め、自分の肉の願いを捨てて、神の言葉に従うことを学び始めているようです。

やはりシェケムで殺されかけてエルサレムに逃げ帰ったという経験はかなりショックな出来事で、レハブアムはそこでどうしてこんな事になったのかを考えるようになったのでしょう。

それに比べてネバテの子ヤロブアムは自分の肉の考えで神の言葉に真っ向から背いていきます。

ヤロブアムは自分に従うイスラエルの民がエルサレムの神殿に定期的に行くことで自分から離れてしまうことを恐れました。ヤロブアムは主なる神によって十部族の王とされたのに、その王権を保ち、強化するために人間的な手段と方法に走るのです。

ヤロブアムは民がもうエルサレム神殿に行かなくてもいいように金の仔牛二つを作り、それをイスラエルの神としてベテルとダンに置いて、民に偶像を崇拝させるのです。

またエルサレム神殿に行かなくてもいいように多くの高きところを作り、そこに偽の祭司を置いて礼拝所とするのです。

これは人間的にはとても効果的な方法でした。民はエルサレム神殿まで行かずに手軽に礼拝できますし、目に見える偶像があることで民に偽りの平安を与えることもできたからです。民はこの政策を歓迎したのです。

しかしこれはイスラエルに与えられていた律法、神の言葉に真っ向から背くことであり、このような偶像崇拝は神の御目から見るなら呪いを招くものでしかありませんでした。

ヤロブアムの政策は効果を発揮し、民も歓迎し、一見すると大成功に見えたのです。しかしこれは後々「ネバテの子ヤロブアムの罪」として長く語り継がれることとなり、ヤロブアム一家の滅亡と北イスラエルの滅亡を招く原因となってしまうのです。

ヤロブアムは自分の人間的な考えによって自分を王として立てられた主なる神に真っ向から挑戦することになってしまったのです。ヤロブアムは民がもっと便利んい礼拝できるようにしただけだと言い訳をしていたと思いますが、神の言葉に基づかない礼拝はどんなに主なる神を拝んでいると言っても、それは偶像崇拝でしかありませんでした。

悪魔は神の言葉に対する小さな妥協を通して私たちへの侵入口を作るのです。いやーこの方が便利だから、いやーこの方が楽だから、いやーこの方が安心できるからと私たちを妥協させ、神の言葉から引き離し、その小さな隙間から入り込んで、やがて私たちを盗み、殺し、滅ぼしてくるのです。

どんなに信じているつもり、従っているつもりでいても神の言葉から離れてしまうならそこにはもう神との交わりはありません。そこにはただ自己満足をもたらす宗教があるだけです。

不安や恐れを人間的な方法と画策で解決しようとするのではなく、切に祈って神とその御言葉にますますしっかりと堅く立ち、神からの平安によって勝利する者となりたいと思います。

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