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罪の支払う報酬は死です

[列王記 第一 14:6,7,8,9,10]

アヒヤは、戸口に入って来る彼女の足音を聞いて言った。「入りなさい、ヤロブアムの妻よ。なぜ、ほかの女のようなふりをしているのですか。私はあなたに厳しいことを伝えなければなりません。行って、ヤロブアムに言いなさい。イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしは民の中からあなたを高く上げ、わたしの民イスラエルを治める君主とし、ダビデの家から王国を引き裂いて、あなたに与えた。しかしあなたは、わたしのしもべダビデのようではなかった。ダビデはわたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの目にかなうことだけを行った。ところがあなたは、これまでのだれよりも悪いことをした。行って自分のためにほかの神々や鋳物の像を造り、わたしの怒りを引き起こし、わたしをあなたのうしろに捨て去った。だから、見よ、わたしはヤロブアムの家にわざわいをもたらす。イスラエルの中の、ヤロブアムに属する小童から奴隷や自由な者に至るまで絶ち滅ぼし、人が糞を残らず焼き去るように、ヤロブアムの家の跡を除き去る。

今日の聖書箇所
I列王14:1〜20

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

ヤロブアムの22年に及ぶ治世も終わりに近づいた時、遂に神の裁きの御手が臨み始めるのです。

ヤロブアムの子アビヤが病気になり、ヤロブアムは自分が王になることを告げた預言者アヒヤにその子がどうなるかを尋ねるために自分の妻を遣わします。

ヤロブアムの妻は変装してアヒヤのもとを尋ねますが、アヒヤは既に主なる神に全てのことを教えられていました。ヤロブアムはまだ主なる神を誤魔化すことができると思っていたのです。

ヤロブアムは預言者アヒヤを通して明確な神の言葉を与えられていたのです。ダビデのように主の道を歩むなら、その家は栄え、主を捨てるならその家も捨てられると語られていたのです。

ヤロブアムはそんな事はないだろうと主の御言葉に挑戦して、金の仔牛を作り民を偶像崇拝へと引き込み、自分たちに都合にいい偽りの宗教を作り上げたのです。全ては自分の王権を安定させ、強化するためだと思っていたのです。

恐らくヤロブアムはそれらが神の御言葉に真正面から反することを知っていたでしょう。しかし神は自分の苦しい事情を知って見逃してくれるだろう、許してくれるだろう、分かってくれるだろうと思っていたのではないでしょうか?

ヤロブアムは神の言葉とは違っても自分も民を神を礼拝し、神に仕えているのだと言い訳して自分を騙していたのではないでしょうか?

そんなヤロブアムに神の人が遣わされ神の裁きを警告し、しるしも与えられ、ヤロブアムは神の力も体験させられたのです。しかしそれでもヤロブアムは悔い改めることはありませんでした。

大丈夫、全てはうまく行っている、神は自分を認めてくださっていると自分を騙し続け、偽りを信じ続け、偽りの道をあゆみ続けたのです。そして遂に神の忍耐の時が終わり、神の裁きの時が始まってしまったのです。

どんなに変装してももう誤魔化すことはできません。自分がなしてきたことに直面しなければならなくなったのです。

ヤロブアムは神の特別な恵みを受けた人でしたが、生涯、その恵みに感謝と従順ではなく罪と忘恩によって報いたのです。そのように神を舐めてかかり、侮ったヤロブアムはとても厳しい裁きを刈り取ることになってしまったのです。

ヤロブアムの子アビヤだけはヤロブアム全家の中で主の目にかなうところがあるただ一人の人でした。それゆえアビヤだけは神の裁きの前に死に、墓に葬られるという憐れみを受けたのです。

私たちはヤロブアムの失敗から学ばなければなりません。私たちもまた罪を軽く見て、神は愛だから裁きなどないと神を侮ることが多いからです。

罪は確実に私たちと私たちが属する共同体を破壊していきます。私たちはやがて必ず蒔いたものを刈り取ることになっていくのです。そうであれば今日、どのように生きるかがどれほど大切でしょう。

罪を犯さない人は誰もいないのですから今日、罪を悔い改め、主イエス・キリストの十字架の血による赦しと清めをいただいて、祈って聖霊様の力をいただいて罪から離れ、感謝と従順の道を歩み始めるのです。主の御血の力、聖霊様の力で罪と戦い、悪魔と戦い、肉と戦い、一つ一つ勝利していくのです。それが信仰生活です。それは手軽で簡単な道ではなく狭い門から入る、狭い道です。日々、自分の古い肉を十字架につけていく十字架の道です。この世の人から見るならば、愚かに見える道であり、何の楽しみもないように見える道です。

しかしそのように狭い門から入り、十字架の道を歩んでいくなら、そこにはこの世の人が決して味わうことのできない主との交わりの喜び、主に愛され主を愛する喜び、聖霊様による天の喜び、栄光から栄光へと変えられ、成長していく喜び、天の報いと冠が待っている喜びがあるのです。

それが御霊に蒔いていく人生です。そのように歩むならどんな挫折と失敗と痛みの中からも癒され、回復され、立て直されていきます。ヤロブアムにも何度もそのチャンスがあったのです。しかしヤロブアムはそのチャンスを自ら捨てて、罪を犯し肉にまき続けることを選んでしまったのです。そして裁きの時が来てしまったのです。その時になって後悔してももう遅いのです。

今日という恵みの時、今日という救いの日を大切にしていきたいものです。愛と恵みの神は同時に義と裁きの神であることを忘れず、神とその御言葉を畏れる者となりたいものです。救いの恵みに絶えず感謝して礼拝し、祈り、御言葉をしっかり聞いて、悔い改め、一歩一歩主とその御言葉に従っていきたいと思います。そのように御霊に蒔いていくならやがて次の御言葉の成就を私たちは見ることになるでしょう。

[詩篇 126:5,6]

涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え 泣きながら出て行く者は束を抱え 喜び叫びながら帰って来る。

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