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手遅れになる前に悔い改めるのが最善です

[列王記 第二 22:18,19,20]

主を求めるためにあなたがたを遣わしたユダの王には、こう言いなさい。『あなたが聞いたことばについて、イスラエルの神である主は、こう言われる。あなたは、わたしがこの場所とその住民について、これは恐怖のもととなり、ののしりの的となると告げたのを聞いた。そのとき、あなたは心を痛めて主の前にへりくだり、自分の衣を引き裂いてわたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる──主のことば──。それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖たちのもとに集める。あなたは平安のうちに自分の墓に集められる。あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらす、すべてのわざわいを見ることはない。』」彼らはそれを王に報告した。

今日の聖書箇所
II列王22:12〜20

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

南ユダにとって最後の希望となったヨシヤ王が登場します。ヨシヤは主の目にかなうことを行い,マナセ,アモンによって荒廃してしまった神殿の修復と信仰復興に取り組みます。

そんなヨシヤに神殿で発見された律法を通して神の御言葉が初めて体系的に語られていくことになるのです。当時は今のような聖書があったわけではありませんでした。今の聖書の一部分が受け継がれていただけでした。

そんな時代にモーセの律法がまとまって見つかって,ヨシヤ王は衝撃を受けるのです。それは南ユダがこのように荒廃し,滅亡寸前になっているのは全て自分たちと先祖の罪のゆえの刈り取りであることを知ったからです。

律法,御言葉という基準を知って自分たちがどれほどずれてしまったいたのか,律法,御言葉という光に照らされて自分たちがどれほど大きな罪を犯してきたのかを知ってしまったからです。

ヨシヤ王の時代にはもう積もり積もった罪ゆえにもう南ユダは救いようのない状態になっていたのです。はっきり言ってしまうともう手遅れだったのです🥲女預言者フルダはその事をヨシヤ王にはっきりと伝えます。

[列王記 第二 22:14,15,16,17]

そこで、祭司ヒルキヤ、アヒカム、アクボル、シャファン、アサヤは、女預言者フルダのもとに行った。彼女は、ハルハスの子ティクワの子である装束係シャルムの妻で、エルサレムの第二区に住んでいた。彼らが彼女に伝えると、彼女は彼らに答えた。「イスラエルの神である主はこう言われます。『あなたがたをわたしのもとに遣わした人に言え。主はこう言われる。見よ。わたしは、ユダの王が読み上げた書物のすべてのことばどおりに、この場所とその住民の上にわざわいをもたらす。彼らはわたしを捨て、ほかの神々に犠牲を供え、自分たちのすべての手のわざで、わたしの怒りを引き起こした。こうして、わたしの憤りはこの場所に燃え上がり、消えることはない。』

積もり積もった罪に対する裁き,罪の刈り取りはもう避けることはできない状況でした。しかしそんな絶望的な状況でもヨシヤは真実に悔い改めるのです。そのようなヨシヤに対して主なる神はヨシヤの時代には裁きを下さず,憐れみを注ぐことを語られるのです。

これを通して私たちは何を教えられるでしょうか?それは神の慈しみと厳しさではないかと思います。

義なる神は決して罪を見逃したり,あいまいにされることはなく最終的には必ず正しく裁かれるのです。神の裁きの基準はその御言葉です。御言葉通りに神は裁かれるということです。それを変えることはできません。

しかし同時に神は悔い改める者にはどこまでも憐れみと恵みを注がれる慈しみ深い方であるということです。それゆえ私たちはどれほど絶望的な状況であっても悔い改めるべきなのです。そうするなら裁きは延ばされ,憐れみが注がれていくからです。

そして悔い改めは早ければ早いほど善いことが分かります。罪を重ねて手遅れになってからではたとえ悔い改めたとしても罪の刈り取りはより大きなものとなってしまうからです。

赦されるから大丈夫,神は愛だから大丈夫という悪魔の惑わしに騙されて悔い改めを先延ばしにしてはいけません。日ごとに悔い改めるのです。

そのために私たちは日ごとに御言葉という神の基準を知る必要があるのです。その御言葉の光に照らされて自分自身の本当の姿をしっかりと見つめ,点やしみがあるならその都度悔い改め,主の血潮で洗われていく必要があるのです。そして御言葉によって軌道修正していくのです。

そのようにしていくなら手遅れになることはありません。そのようにしていつも御言葉に従うことを求めていくなら,罪の刈り取りではなく豊かな祝福を刈り取っていくことになるからです。

罪の刈り取りの人生ではなく,御言葉への従順を通して祝福を刈り取る人生を歩んでいきたいものです。

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