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「フロー体験 喜びの現象学」第5章の要約



第5章 身体のフロー

生活の質を高める最も簡単な方法は、身体とその感覚の統制の仕方を知ることである。

もし、身体の機能が委縮したままに放置されるならば、生活の質はただ必要を満たすだけのことになり、人によっては惨めなものにさえなる。
しかし身体の能力を統制し、身体的感覚に秩序を与えることを身につけるならば、秩序を失った意識は楽しい調和感覚に取って代わる。

身体を空間で移動させるという単純な行為も最適経験を生み、自己を強める複雑なフィードバックの源泉となる。一つ一つの感覚器、運動機能がフローを生み出すために役立てられる。

運動はしなければならない。
ということですね。
身体を鍛えるためにも
脳を鍛えるためにも
運動はマスト
30歳過ぎたら、身体にガタが、来始める。
怪我をしてから、病気をしてからでは遅い。
健康なうちから始めよう。

より高く、より速く、より強く

最も単純な身体的行為ですら、それがフローを生むよう変換されるならば楽しいものになる。この変換過程の基本的な段階は、

A、全体目標を設定し、現実的に実行可能な多くの下位目標を設定すること
B、選んだ目標に関して進歩を測る方法を見つけること
C、していることに対する注意の集中を維持し、その活動に含まれるさまざまな挑戦対象をさらに細かく区分すること
D、利用し得る挑戦の機会との相互作用に必要な能力を発達させること
E、その活動に退屈するようになったら、困難の度合いを高め続けること
である。

歩くということは考えられる中でも最も取るに足らない身体的活動であるが、目標をもち、その過程を統制するならば、きわめて楽しい活動にすることができる。
他方、健康に良いから「やらねばならない」という態度で行うならまったく楽しくないだろう

楽しさは、「何を」するかによるのではなく、むしろ「どのように」するかによって決まるのである。

ただ互いに話をしている時、庭仕事をしている時、編み物をしている時、趣味に熱中している時に幸福と感じることが最も多かった。
外的資源を使い果たすレジャーはあまり注意を要しないことが多く、その結果、一般にそれは心にわずかの報酬しか残さないのである。

例えば、職場への通勤手段が自転車の場合、見方によっては
「サイクリングをしている」という積極的な運動行為にもなるが、そうはならないことのほうが多いのではないか。
なぜなら、それは「~しなければならない行為」になっているから。
楽しい行為にはなっていない。

遊園地に行く、レジャースポットに行く
などは「楽しい」が
「嬉しさ」や「やりがい」はあまり感じられない。
楽しくはあるが、レジャー活動で「成長」は感じられない。

動きの喜び

音楽に合わせて身体を動かすことは、経験の質を高める方法として広く行われている。
ダンスの素人でも、専門のダンサーと同じ程度に面白さを感じることができる。

小学校でダンスの授業があるのは、こういった科学的知見に基づいているのだろうか。
僕らが小学生の頃はダンスの授業なんてなかった。

フローとしてのセックス

セックスの衝動はきわめて強いので、他の重要な目標から心理的エネルギーを流出させてしまうこともある。
セックスに快楽を求めるためには健康で自発的でありさえすればよい。
しかし、他の快楽と同様、楽しい活動へと変換されない限り、セックスは時とともに容易に退屈なものとなる。

最初のデート、最初のキス、最初の性的交渉、これらすべては若い人々に数週間続けてフロー状態を維持させる。しかし、多くの人にとってこの恍惚状態はわずか一度しか現れない。同じ相手と数年にわたって楽しいセックスを維持することはとりわけ難しい。

フローを維持するためには、、初めは身体的な
挑戦だけで十分であるが、ロマンスと純粋な心遣いが同時に成長しなければ、二人の関係はやがて陳腐なものになってしまう。

重要なことは、性的感覚も他の生活場面と同じく、我々がすすんでそれを統制し、より複雑なものとするよう洗練すれば、楽しいものにすることができるという一般原則である。

セックスの問題は難しい。
性欲はコントロールできないことがある。
だから、セックスで身を亡ぼす人が後を絶たない。
浮気や、不倫で人生を棒に振る人が五万といる。

夫婦とセックスは切っても切れない
長年セックスを楽しむためには、お互いの努力が必要
「より複雑なものにする」
空気のように扱ってはいけない
そこにいて当然のものではない

究極の統制ーヨーガと武術

ヨーガとフローとの類似性はきわめて大きい。
ヨーガはフロー体験を生み出すための最も古く体系的な方法の一つであると考えても間違いではない。
西洋の武術が身体的動作にのみ焦点をおくのに対して、東洋のさまざまな武術は訓練者の知的精神状態の改善へと方向づけられている。

感覚を通してのフロー.視る喜び

ものを視る能力は楽しい経験へと限りなく近づく可能性をもっている。
視覚芸術はこの能力を発展させる最良の訓練の場である。
視るということはいつでもできることなのだから、それを発達させないままに遊ばせておくことはとくに惜しまれる。

視界に受動的に目に入る「見る」ではなく
芸術作品を「視る」ような目で日常生活を送るだけでも、感覚は鍛えられる。
僕は人間観察が好きだ。
表情の微妙な変化や、背中から発せられる「気」のようなものも「視る」のが好きだ。

音楽のフロー

音楽は退屈と不安をよせつけず、真剣に聴き入る時にはフロー体験を引き起こす。
生活を向上させるのは「聞くこと」ではなく「聴くこと」なのである。

音楽を楽しむためには音楽に注意を集めねばならない。
音楽を聴くための特別の時間を設定することから始める。
これから始まる演奏を聴くための目標を明確に設定する。

プラトンは子供には他のすべてに先駆けて音楽を教えるべきであり、優雅なリズムやハーモニーに注意を払うことを学ぶことで彼らの全意識は秩序化されると信じていた。
子供の頃にピアノの神童と呼ばれたローリン・ホランダーは一人でピアノを弾いている時、どれほどエクスタシーの中に我を忘れたか、しかしあれこれ要求する先生がいる時にはどれほど心の底から恐れおののいたかについて述べている。
ハーモニーのある音の創造を学ぶことは楽しいだけではなく、すべての複雑な能力の熟練と同じく自己を強化するのに役立つのである。

音楽はからっきしダメだったな。。
妻はフルート奏者
次男はピアノを弾く
僕と長男は楽器を演奏することができない
両者の間に、感性の違いを感じる
僕がポップスを聴いていると
妻は「耳障りだからやめて」とよくいう。
一方、妻がクラシックを聴いていると僕は寝る。

芸術で使う「耳」を僕は持ち合わせていない
いや、興味を持つことで鍛えられるのではないか。。。
ただ、その興味がない。。。

仕事では、物理的な音
お客さんや従業員の心の声を「聴く」
聴きすぎて嫌になる時がある。

味覚の喜び

セックスと同様、食べることは我々の神経系に組み込まれた基本的快楽である。
料理の喜びに熱中する危険性は、それが中毒症を起こすということである。
大食(gluttony)と好色(lust)が七つの大罪に含まれているのは決して偶然ではない。

自由に選び取った領域を通してのみ生活は楽しいものとなり、なおかつ理性の境界内に留まることができる。もし、そうしなければならないからではなく、そうしたいという理由で自分の本能的欲望を統制することを身につけるならば、中毒することなく楽しむことができる。

フローを生み出す身体の潜在的可能性を認識することは比較的容易である。特別な才能も出費も必要ではない。
全ての人が今まで無視してきた身体的能力を開発することによって生活の質を大きく改善することができる。
もとより一人の人間が二つ以上の身体的領域で高い水準の複雑さを獲得することは困難である。
優れた競技者やダンサー、視覚・聴覚・味覚の専門家になるのに必要な技術の獲得には非常な努力を必要とするので、個人は生涯を通して、ほんのわずかのものに精通する心理的エネルギーしかもっていない。
しかし、これらのすべての領域の好事家ー(最も良い意味での)ーになること、言葉を換えれば身体が行い得ることに喜びを見出す能力を十分に育てることは明らかに可能なのである。

何に対して喜びを見出すのか
視ること
聴くこと
味わうこと
触ること
感じること

フロー体験は誰にでも訪れる。
フローの概念を知ることから始めよう。

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