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【はじめてのタイ文学】「タイムトラベラー・ブレイクポイント2020」感想

微ネタバレ注意。


コロナ禍の2020年。当時のことを私はどれほど覚えているだろうか。緊急事態宣言のさなかも変わらず出勤していたあの日々や、どことなく誰もが刺々しかった通勤電車のあの空気は気づけば遠い昔のことに感じられ、記憶は靄がかかったように曖昧だ。

今、2024年にいる私にとってあの頃は、背後に横たわる膨大な過去の一部に過ぎないのだろう。時間は必然的に過ぎ去っていくもの、過去は必然的に置いてくるもの。それが勝手に積み重なって、“わたし”として朧げなかたちをつくるのだ。

しかし、全ての人にとって時間が過ぎ去るものとは限らない。私がすでに通り過ぎた2020年に、とどまり続けることを強いられた人がいる。それがこの作品「タイムトラベラー・ブレイクポイント2020」の主人公である。

SF作品である本作の主人公は、タイムトラベラーをサポートする“番人”の役目を課せられている。志願してそうなったわけではなく、“番人”として生まれついたのだ。

時間を超えるとき、タイムトラベラーたちは西暦何年を目的地にするかということしか決められない。その年のどの場所を訪れるかは設定できないのだ。目的の西暦にたどり着くと、彼らはあらかじめ決められた場所に姿を現す。(中略)トラベラーたちがほかの場所で用事を済ませたければ、自分で車や飛行機を乗り継いでいかないとならない。

「タイムトラベラー・ブレイクポイント 2020」

前述の“あらかじめ決められた場所”である着地点。そこに居住するように決められているのが番人だ。2020年の番人である主人公のロシェンは、その年の着地点であるバンコクで暮らしている。よりによってコロナ禍真っただ中の混乱に包まれた年。都市封鎖でどこへも行けないそんな年には、トラベラーたちも滅多に来ない。彼女だけが永遠に、年末を迎えると年始に戻り、2020年を繰り返している。

ロシェンは決してそんな生活に満足しているわけではない。しかし、2020年から別の年に移動することも、バンコクから別の場所に引っ越すことも、望んだことはあったが叶わなかった。だからもう諦めて、2020年にいることを受け入れて生きている。

そんな彼女は、おおよそ100回目の2020年にチャーンという名の青年に出会う。これまでの2020年でもずっとそこにいたはずの青年と初めて出会い、親しくなり、互いを愛するようになっていく。しかしロシェンは2020年の住人だ。2021年を迎えた途端、この先を生きていくチャーンの記憶からは存在を抹消され、彼女だけがその年の始めに戻るのだ。

「何回目の2020年だろう。彼女はチャーンに何度出会ったんだ。彼女はチャーンを何度失った?」

https://bandbcaravan.official.ec/items/71547642

そんな男女の恋愛を描いた「タイムトラベラー・ブレイクポイント2020」は、おそらくラブロマンスだ。奥付にも“コロナ・タイムトラベル・ラブロマンス”とある。

しかし私にとってロシェンの旅路は、奇跡と気づきの物語だった。新しい日を迎え、新しい出来事や物事に出会い、それを反芻しながら眠りについて次の日を待つこと。ロシェンにとっては喉から手が出るほど望んでも諦めるしかなかった“時の移動”を、私はただ生きているというだけで許されている。そのことに無自覚だった自分を知り、胸が苦しくなる。そして生まれながらに与えられた当たり前が奇跡であることに気がついて、世界が少し光を帯びる。

2020年を繰り返す中で、決定づけられたチャーンとの出会いと別れを幾度となく迎えてきたロシェン。終わりが来ることを知っているが故にチャーンと心を通わせることも満足にできなくなっていく。そんな彼女のもとに、ある年末、ひとつの奇跡が訪れる。

その奇跡が発端となって未来へつながっていく希望の連鎖に、私の目からは涙があふれて止まらなくなった。あまりにも尊く、美しく、当たり前の奇跡。副産物的な事実ではあるが、その奇跡が救ったのはロシェンだけではない。コロナ禍の鎖国状態が続く2020年においてタイムトラベラーたちが各国を旅できるようになったという描写には、当時労働と残業に明け暮れて、閉塞感の中で元上司に威圧され、肩をすぼめて萎縮していた“どこへも行けない2020年の自分”までもをすくい上げてもらえたような心地になった。

時間は必然的に過ぎ去っていくもの、過去は必然的に置いてくるもの。それが勝手に積み重なって、“わたし”として朧げなかたちをつくってゆく。それはきっと間違いではない。けれど、その“必然”が私たちに与えられた奇跡であることに自覚的でいたい。そう思わせて、視界を広げてくれた素敵な奇跡の物語だった。

訳者の福冨先生によると、非常に在庫希少だという「タイムトラベラー•ブレイクポイント2020」。心に響く素敵な物語なので、出会えたらぜひ手に取って読んでみてもらいたい。

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