中世の本質(26)忠臣は二君に仕えず

 さて双務契約の不成立についてもう一つの例をお話します。それは<忠臣は二君に仕えず>という表現についてです。この言葉は武士の素晴らしい生き方のように理解されることがあります。しかしそれは大変な誤解です。そんな生き方は武士にとっても大名にとってもあり得ない。それは奴隷の言葉です。古代世界の生き方です。中世の契約社会には存在しえないものです。
 中世に絶対は存在しません。中世は<相対の世界>です。主君への忠誠はあくまでも主君の十分な保護があっての忠誠です。ですから忠臣は二君に仕えずという絶対の言葉は中世の権力者(中世王や大名)のプロパガンダと解釈されます。彼らは武士の自立を阻み、そして武士の自由を奪うためにそんな<口当たりの良い言葉>を振りまいたのです。いわば姑息な武士統制の一つです。
 そんなプロパガンダに洗能された哀れな武士もいたかもしれません。それは平和な江戸時代の武士たちです。戦争が無い、戦役を果たせない、従って戦功も挙げられない、そんな世であれば主君と武士との間の保護と忠誠の関係は形骸化する。ですから武士たちは心ならずも忠臣を演じた、すなわち奴隷のように暗君や凡君に生涯、仕え続けたのです。それはやむを得ないことでした。
 そうした時代の要請の下、江戸時代の主従関係は固定化され、惰性的なものとなっていたのです。しかしそれは武士本来の生き方ではありません。江戸時代の武士は例外的な武士です。この例外者を日本の武士であると偽ると武士は奴隷であると定義されてしまいます。武士の面目を潰してはいけません。
 但し、いくら能天気な江戸時代であっても自らの藩が存亡の危機に陥った時は別です。その時、武士は本来の主従関係を全うします。平和時における藩の危機は徳川によってもたらされました。徳川は常に、治安の維持を各藩に求めていました。そのため藩の運営に不真面目な、浪費家の藩主や酒乱の藩主などを見つけるや否や、徳川はその藩を取りつぶしたのです。
 武士たちはそんな危機を回避する。彼らは先ず、藩主失格な君主を責めて、彼を座敷牢に閉じ込める、そして新しい藩主を据え、徳川の目をそらします。そうして藩は安泰を取り戻すのです。
 これは一見、武士たちの裏切りのように見えます、しかしそれは主従関係の実行です。武士の抵抗権の発揮です。主君の保護が十分なものでなければ、武士たちはその主君から離れる、主君を殺害する、あるいは主君そのものを取り替えるのです。武士たちが主君(棟梁)を選ぶ行為は武家にとって自然なことであり、根本のことです。
 それは今日の国民が自分たちに相応しい憲法を求めることと同じです。もしも憲法が今の時代に相応しくなければ相応しいものに変えます。それは国民の権利であり、そして義務です。
 特に戦国時代において武士たちは主君の世襲に当たり大きな役目を果たしました。必然的なことですが、戦国の世は有能で、勇敢な主君を求めます。ですから跡継ぎは長子とは限らない、有能であり、勇敢であれば次男や三男も後継ぎとなりうる。武士たちはそんな子を彼らの新しい主君として選びます。それは主君も従者も共に協力し、生き抜くという主従関係の本来の目的を全うすることですから。
 このように平和な江戸時代においても主従関係は(細々とですが)絶えることなく、続いていたのです。武士たちはいざとなれば形式的な忠臣の仮面を剥ぎ取り、本来の武士を演じ、主従関係を全うしたのです。
 そして鎌倉武士や戦国武士などはそんなプロパガンダなど相手にしません。彼らは主君を信じ、忠誠をつくしました。そしてそれ故、彼の戦功に対し、主君の恩賞が十分なものでない場合、武士の主君への抗議は激しいものとなります。あるいは決然として主君を変えます、二度、三度と変えます。あるいは主君を暗殺しました。

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