中世の本質(18):狭い視野

 最後にもう一つ中世室町時代死亡説を紹介します。それは<農民自立説>です。それもまた石高制論や兵農分離論と共に有名な中世論です。農民の自立こそ中世の終わりを意味し、そして近世の始まりであるとする歴史研究者の主張です。
 それは次のようなものです。―――戦国時代から桃山時代にかけてのことです。農民は兵農分離や太閤検地や石高制の成立をもって自らの農地を所有するようになりました。それは農民の自立といえます。従って農民は最早、奴隷ではない。農民の自立は画期的なことであり、すなわち歴史を画すことである、それ故、中世は室町時代で消滅した、桃山時代から近世である、と。
 残念ながらこの論も短絡的です。農民の自立は素晴らしいことですが、それは歴史を画すものではありません。歴史研究者の方々は歴史の一点に焦点を当てて、そこを一心に深堀します、それは歴史家の使命でしょう、しかし 彼らは歴史を広く検証することに甚だ無関心です。
 この論者は歴史を検証するにあたり、限られた時代や限られた人種だけを相手にしています。彼は主に室町時代や桃山時代に焦点を当てて、農民の立場を観察し、そこに農民の成り立ちを見出した。そしてそれを短絡的に歴史の画期と結び付けて、中世室町時代死亡説を唱えてしまった。
 しかしこの論者は鎌倉時代にまで歴史を遡ることを怠っています。中世人のすべてを検証しようとはしていません。農民だけに焦点を当てています。つまり彼は鎌倉期の領主や武士を観察せず、従って彼らの成り立ちに気付かず、見逃しているからです。実に片手落ちです。中世人は農民だけではありませんから。農民だけの成り立ちで歴史を画することなどできません。
 領主や武士の自立が中世人の自立の第1段階です。それは古代武士(鎌倉時代以前の武士)と中世武士を区別するだけでは無く、古代支配と中世支配を区別する決定的なことです。武家は最早、王朝に従属する用心棒ではありません、公家の下にうずくまる奴隷的な武人でもありません。
 12世紀、関東の地の封建領主たちは古代王朝から自立しました。彼らは自ら武家の棟梁を定め、武家政権を樹立し、武家独自の法を制定し、古代王朝とは異なる分権統治を実施したのです。
 そしてさらに本質的なことは武士が双務契約を開発し、権利と義務を持つ個人となり、自主性を確保しました。それは武士の自立です。それは中世人最初の自立でありました。(双務契約については後で詳述します。)
そして農民の自立が第2段階です。それは武士の自立後、300有余年を経た自立です。その時、国民のほとんどが成り立ちました。歴史的な瞬間です。それは中世の確立期であり、そして古代の専制主義の全面的な崩壊でした。(古代で成り立つ者は古代王一人です。)
 従って武士の自立を無視し、農民の自立だけをもって歴史の画期とし、中世室町時代死亡説を唱える論はあまりにも乱暴です。恣意的であり、短絡的です。視野が狭すぎます。この論者は中世史の連続や中世の特質をすべて無視しています。
 国民の成り立ちという、歴史上、極めて重要なことが鎌倉時代から桃山時代へと一貫して存在しています。それは国民自立の切れ目ない、軌跡です。中世は室町時代から桃山時代へと密接に連続していたのです。ですから中世室町時代死亡説は明らかに曲説です。
(この書<中世の本質>は歴史論<中世化革命>からの引用です。それはアマゾンから出版されています)

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