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ASD(無自覚)の親不適応ポイント

今回の記事は、私が母親(ASD)の元で過ごした25年と再び母(81)から10年間過ごした合計35年間で、私なりにわかったことをまとめます。

ASDの特徴を持った人もそれぞれ個性がありますし、周囲の環境、生まれた年代によっても違いがあると思います。

本人が自分の特性(ASD・ADHD・LD・HSP・・・いろいろ)に気づいているかどうか、この点はかなり大きな違いになると思います。

昭和一桁生まれの母はおそらく自分の特性に多少の自覚はあると思いますが、自閉スペクトラムについて伝えても、認めることはないと思います。

前半はASDの特徴がいわゆる「毒親」になってしまう要因について,
私が考えるところをまとめました。
今回はここまで無料です。

後半は母親との関係の中でのトラウマを回復する方法、本来の自分を生きるヒント、より大きな観点から見た親子とは?などを書きます。
後半部分は有料です。

このシリーズを書き始めた理由はこちら

子ども時代の話はこちらに


老いた母と過ごした期間の話はこちらです。


共感と自己肯定感・自尊心

敬語と自己肯定感

ASDとは少し離れたところから入ります。

日本を含めて東南アジアの国々では儒教の影響から、親も含めた上下関係と、目上には敬語、丁寧語、尊敬、謙譲語を使うという文化があります。

英語圏でも丁寧な言い方はありますが、一般的にかなりフランクな会話が多いと思います。

私の両親(父、大正12年 母、昭和4年)が育った時代は、身分が上の人の前ではかしこまって丁寧な言葉を使うのは、当たり前でした。

両親を観察していると、上の人を持ち上げ、自分を下げる(謙譲)は当然のでした。
特に父は卑屈に感じるくらい相手(目上)に対して気を使っていました。
相手をたて身内は下げる のが上下関係のはっきりした社会では求められたマナーだったのかと思います。

私はこんな両親から誉めてもらった記憶はほとんどありません。

今でこそ、”子どもの良いところを積極的にほめましょう”というのがメジャーな子育てになっていますが、両親の育った時代(90年くらい前)はそうではなかったと思います。

子どもは親の命令に従う的な子育てが、主流だったと思います。
特にうちは軍人・教員など末端組織のような位置だったので、なおさらそうだったのかもしれません。

小学生の頃、アメリカのTV番組を見て驚きました。
子どもを誉めたり、対等に会話し、赤ん坊でなくてもハグするのだと。
こどもの意見や感想を否定せずに、受け止める大人がいることにびっくりしたことを覚えています。
当時の私の周囲の大人(親や教師)は命令や指示が多く、優しい人でも子どもの言う事を対等な目線で受け止めてくれる人はいなかったと思います。

日本でも早くから海外に留学することのできる資力のあった一部の人達は、子どもに海外流の子育て、教育を取り入れていたとは思います。

自分の意見をはっきり言い、それに肯定的な反応を得る事
何かを成し遂げた時、誉められる事

こういう経験を積み重ねていくのと、この経験が少ないor全くないのかでは、自己肯定感・自尊心に違いが出てくるのは当然でしぃう。

私の両親は戦後の子育てにシフトチェンジ・アップデートすることができなかったと思います。

また母はASDの特性として、一度入った情報をなかなか上書きできません。
子どもは親の命令に従って当然(親の要求に応じて当然)が強固に保持されたと思います。

人の気持ちがわからないとは?

人の気持ちは複雑

ASDの特徴に 人の気持ちがわからない があります。
いわゆる定型の人たちが考える「普通これくらいわかるでしょ」 みたいな感じがわからないと言います。

ですが、人の気持ち と一口に言っても、本当にいろいろ、様々なケースがあります。
普通と言って片付けられない複雑な心の動きです。

いわゆる定型発達 といわれる人は、幼い頃から繰り返しいろいろな遊びや体験を繰り返すなかで試行錯誤し、統合しながら、「人の気持ち」を学んでいきます。

ごっこ遊びは基本的コミュニケーションの基礎

ごっこ遊びは、何か(車・電車・動物・植物)になりきったり、役割(お父さん、お母さん、お姉さん、お兄さん、弟、赤ちゃん、先生)になりきって遊びます。

ごっこ遊びを通して育まれる能力

  • 創造性 積み木や砂をパンやご飯などにみ立てたり、イメージを形にする(ブロックで家をつくる)力 現実と虚構を繰り返して創造する力

  • 社会性 おままごと、お店屋さんごっこで身近な人の役割を認識し、社会のルールと場面に適した言葉遣い

  • 協調性・コミュニケーション能力 子ども同士でイメージを膨らませて共有し遊ぶ、協調性や言語能力を育む

  • 思考力 イメージを形にするために試行錯誤

  • 心理的発達 他者の立場を体験する 他の人の気持ちに気づくきっかけ「自分と他の人では感じ方が異なる」「現実と虚構の区別」といったことを実感するうえでも、ごっこ遊びには大きな効果

こちらのサイトを参考にまとめさせていただきました。

子どものごっこ遊びは学びの宝庫です。
この世界で生きていく基本的な部分は、教え込まれるのではなく、自発的な遊びから学んでいくのですね。
とくに他者の立場を経験し、自分と人では感じ方が異なる・現実と虚構の区別 という心理的発達には注目です。

いわゆる定型発達の人は幼児期からこうした体験を積み重ねて、コミュニケーション能力を獲得していきます。
時には上書きし、時にこの場合はこう、こういう人の場合はこうだろうと試行錯誤し、応用範囲をひろげていきます。
日常的に無数の体験を通して、定型発達同士の極めてハイレベルなコミュニケーション能力を発達させます。

では、自閉症スペクトラムの場合はどうでしょう。

ASDとごっこ遊び(再現遊び)

ASD(自閉症スペクトラム)の子どもはごっこ遊びが苦手である、もしくはできないようです。
再現遊び (自分の見たもの、体験したものをそのまま再現する遊び)が多いようです。
お子さんによって差があるようで一概には言えないようです。

ここでASD(自閉症スペクトラム)の三つ組みと言われる特徴を見てみましょう。

① 社会性(対人関係)の特性
社会で常識とされるようなことや暗黙のルールといったものに無頓着
② コミュニケーションの特性
自分の興味のあることや頭に浮かぶことを次々話すといった特性
③ こだわりの強さという特性(想像力の障害)
決められた手順や一度決めたルールなどに徹底してこだわるという特性


社会性・コミュニケーション・想像力
ごっこ遊びで育まれる部分と重複しています。

この事からわかるように、幼い時期から定型発達とASDでは、大きな違いがあります。

定型発達の人とASDの人は、幼い時から別の世界を生きているようにも思えます。

また、世界の捉え方が、定型発達とASDは違っている とも言えるのかもしれません。

特定のこだわり・集中力が、素晴らしい結果を生むことがあります。
有名なところではエジソン、アインシュタイン、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズはASDの傾向持っているそうです。
女性では、歌手のスーザン・ボイルはASD、黒柳徹子さん、勝間和代さんはADHDの傾向をもっているそうです。
ASDとADHDは重複する場合が多いようですが、個人差も大きいようです。

話をすすめましょう。

自他の境界線が曖昧

ASDの人の持つ特徴に自他境界が曖昧というのがあります。

定型発達の人にもあるかもしれませんが、ASDの場合、かなり特異な現れ方をします。
先述したごっこ遊びの中の 「自分と他人では感じ方が違う」 この理解がすっぽりないという印象を受けます。(私の母に対する感想です。)
他者にたいする見方が表面的という印象を受けます。

顕著に表れるのは家族やパートナーなどの身近な人との関係においてです。

家以外の場所ではそれなりに気を使っており、一般的な言葉遣いや相槌などで本当は理解していなくてもやり過ごしているようですが、
家の中では素の自分が出ます。

一例に本人の知っていることをパートナーや家族も知っていると思うことがあります。

母は、病院の先生や事務の人に言われたことを私がその場にいなくても、すでに知っていると思います。
私がどのように言われたのか聞いても、それに関する内容の返事はきません。
なので、家族はよく知っているはずだと思われますが、実は一番わからないということもあります。

大金の買い物を報告、相談なしにします。
相談しなくても知っている、わかっている、相談の必要なしということなのだろうと思います。

報告、連絡、相談をしないという職場でASD傾向の方に起きやすいトラブルと重なります。

経済的な面では、実際眼にして確認できるお金、封筒の中に5万円、3万円が使うとなくなるは理解しますが、口座引き落としなどのお金の動きは理解していません。

さて、子ども時代のことはよく思い出せませんが、母が何か外で言われたことは子どもはもう知っているはずなのに、なんでそうしないんだ、
そういう感じで突然怒られることがあったのかもしれません。

これは、子どもにとっては寝耳に水で驚きでしかありません。

何か悪いことをしてこれは怒られるだろうな~と予測できることはトラウマになりにくいのですが、突然の怒りや暴言はトラウマになりやすいです。

前述で説明してきたように定型発達とASDの人は世界の捉え方が全く違うのですから、その怒りや叱責の真意は理解するのは難しいです。

これが繰り返されると、なにかわからない不安感 につながる場合もあります。
子ども時代、混乱する場面は多かったのではないかと思います。

こだわりと自他境界の曖昧さがミックスされると

こだわりの分野はASDの人それぞれです。

母の場合は、宗教(キリスト教)勉強 習い事でした。

子どもは自分とは別の存在と認識されないので、自分の思い通りに教会に通い、勉強し、習い事をすることが当然(こだわり)になります。

子どものやる気や感情・体調などの曖昧な要素が入り込む事はできません。
やる気がなくても疲れていても他にやりたいことがあっても、とにかくやる事を要求し、こだわりゆえにそれが当然でそれ以外の選択肢はありません。

ASDを持つ人はパニックを起こすことがあります。
・自分のこだわりから逸脱
・常同行動からずれたとき
・過去のトラウマや嫌な出来事のフラッシュバック

「今日は習い事を休む」 「今日は教会に行かない」
「今日は勉強は後にして友人と電話でおしゃべりする」

という予定外の事が起きる、起きそうになると、
母の場合、責め言葉や暴言をヒステリックにわめきたてます。
反論をすればひどくなるので、子どもは従うより仕方がなくなります。

これが子どもへの過干渉、批判、否定に つながります。

厳しい門限、外出制限、遊び他TV視聴の禁止、勉強の強制、オシャレの禁止などなどは、こだわりを押し付けた結果と言えます。

自己実現と社会参加のツールとしての子ども

定型発達の子どもは4歳くらいから他者の気持ちがわかるようになるといいます。
先述したごっこ遊び等で経験を積み重ね、体得していきます。
親と自分は別の存在であるという事をはっきりと理解するのは9歳ごろです。

自分を振り返ってみると、果たしてこのような定型的な心理的発達をしてきたのかどうかはよくわかりません。

ASDの人はその特性ゆえに社会の中で孤立してしまうことが多いです。
母親の孤立が子どもの育つ環境に影響を与え、子どもはバラエティのある経験をすることができないまま育ちます。

それでも子どもが定型発達であれば、少ない経験を張り合わせ、試行錯誤をして何とか適応しようとします。
親(ASD)に関わる時に混乱がおきますが、子どもゆえの柔軟さでなんとかやっていきます。

そうすることで、ごく早いうち(小学校低学年くらい?)のうちに親(ASD)の人間関係のスキルを超えていきます。

すると、親は子ども(社会的スキル)を通して社会参加するようになります。

これは日本がかつては専業主婦が多く、「○○君のお母さん」
「○○ちゃんのお母さん」という評価のされ方が主流だったことの影響もあると思います。

子どもが勉強その他で評価されれば、親も評価されるという具合です。

自分で成し遂げた事ではなく、子どもがやったことで評価されてしまうと、
子どもにもっともっと頑張らせるというループに入ってしまいます。

毒親が外から見ていると「良い親」と思われる場合があるのはこの辺りになると思います。

子どもを通しての自己実現する感覚は、子どもが進学し仕事を持ち、家を出て、結婚しても子どもを持っても続きます。

子どもが何かを成し遂げることが親の成果と感じられます。

子どもが自分の人生を生きている気がしない時は、親のそのような
思考にフォーカスしてしまったている時かもしれません。

このような事は、ASDの特徴を持つ親に限らず、あると思います。

結果、子どものやる気や本意に関係なく、勉強、習い事、制限(こだわりを押し付けた)は子どものためだったと、親は認識するのかもしれません。


親の役割に適応するのが難しい人がいると認識する

現在の理想の親業は、子どもを受容し、共感し、時には励まし、時には適切なアドバイスなど、かなりハイレベルになっていると思います。

地域とのかかわりが薄れ、父親も不在がちまたは協力的でないとすれば、母親一人でこの理想的な親役をこなすのは、よほどの人でないと不可能です。

女性も働き、保育園に預けることが珍しくなくなり、専業主婦の割合も減り続け、60代未満では20%台になっています。

子育ての形式は変遷していくと思いますが、家の中での孤独な子育てよりも、多数の大人が関わって育っていく方がより健康的だとは思います。

人はみなそれぞれ短所・長所・得意・不得意、そして個性があります。

そのことを子ども自身が早くから体験的に理解していくことは、この世界に生きる自信につながっていくのではないかと思います。

子育てが親だけに、それも女性のみに負担が集中することは、親子にとっても家庭にとっても、社会にとっても利益は少なく損失は大きいのではないかと思います。

「互いに思いやって助け合う家族」というのも、私たちが創り出して思いこんでいる理想,幻想に近いと思います。
特に個人の自立よりも家族で責任を負い、何とかすることが求められる日本は、その理想に縛られがちです。
家族の誰かが自分の人生を犠牲にして家族を優先することがおきる場合もあります。
本人が望んでそうするのであればよいのですが、本人の望みではなく仕方なくという場合があります。

最近,話題になっているヤングケアラーもその例の一つだと思います。

私の年代で保育士、教員、看護士、司書など、専門職の資格を持っいでも専業主婦の人が多くいました。
長時間労働が求められ、家庭や自分の時間とのバランスが難しくなる上に、その労働に見合った対価(給料)が得られないことが大きな理由です。

教育やケアの職場で柔軟な働き方が認められ、それぞれ家族の負担をより多くの人たちでで分担し、支えられるようにになっていくといいと私は考えます。

*ヤングケアラー
障がいや病気を抱えていてケアを要する家族がおり、家事や家族の世話などを行う18歳未満の子どもを指す言葉

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自分の実体験をもとに書いています。 悩むことも迷うことも多かった、楽しんできたことも多いにあった 山あり、谷あり、がけっぷちあり、お花畑あり、 人生半分以上過ぎたけど、好奇心はそのままに 何でも楽しむ気ありありです。よろしく!!