「アオ・ハル」考

見上げる。電信柱の向こうの空の、あの大空の沸き立つ雲は、いつしか私達が、あの町で仰いだ雲と似ている。

吾々は青春という一般的イメージを、ほとんど事後的に生成しているのではないか。
のちにそのように称される期間を生きている主体は、ことさら意識するものでないのである。自らはただ楽しみ、その楽しみを本物の楽しみとして享受することを敢えて疑うようなことはしない。彼らはまだその差分を認識するに至らない、懐かしさを知らない。それは知識ではなく、言葉には還元されえない何かである。失ってはじめて気づくものは多いのだ。
しかし吾々は、もはや青春を語ることのできる認識、つまりその期間が少しでも過ぎ去った誰もが作る、イメージの総体としての、映画ないし小説などの既存の創作物に見出している。「青春」という只中にいてでもである。これは先に述べた、言葉にできないということと矛盾するものでない。概して作品は、読者を異世界に連れ行きさえすればよいのだから。そして作品の読者は、異世界に行きたくてやまないのである。誰かが云った。「小説書き読まれるのは、人生が一度であることの抗議だからだ」。そうした中で、事後的だったイメージは、済し崩し的に、本来あるべきものとして措定される。目指すべきものとして目指される。なぜならそれは、普遍的な、不可逆性の象徴であることを皆知っているからである。たとえ若くしてさえもである。一度離すと二度と戻らない。これほどまでに切実な、真に迫った感情があるだろうか。あの頃に戻りたいと言いかつての友に会すれど、記憶は蘇るだけであり、体験し味わうことはできない。かつての公園、校舎、ひとつとして、過去に帰らせるものはない。後悔と云う事。喜びと云う事。往々にして不可逆の流れのなかに掴む一縷の奇跡である。「懐かしさ」というイメージはまた、ひとつの良き思い出を最大限引き立て、間歇的な不仕合せを無きものに変える力がある。こうしたことは上のような作品に対する創作意欲の源泉となっている。
そればかりでない。その不可逆的な奇跡には「若さ」が宿っているのであるのである。たしかに、のどけき田畑の広がる鄙に、そこはかとなく安住するのもそう悪いものではなかろう。あるいは、事を辞し、有り余った時間でかつて夢見たことを現実にしようと奮起するのも、たいそう面白味がある。しかしそこには毅然として「死」が、脳、もしくは心の一隅を占めているに違いない。むろん若いものが死なないという法はない。誰だってその可能性は、ある。だが云いたいことは、「若さ」という記号が死を捨象し得るということである。その記号が示すところは、主だって視座は茫漠たる未来を向いているのである。明るさへの向性とでもいうべきものがある。
ここでひとつの疑問が生まれる。さすれば若いとはいつまでのことであるか。その答えは容易ではない。とかく幼児期においては、そのような感覚になる事は少ないものと見える。なにごとも親の管理下にあり、すべては親が決定する。だがやや長じて、小学生ともなってみると、放課後は友との場となる。鞄を投げると同時に駆け出す、あのありがちな光景に象徴される場である。我々ははじめて、親という管理下の下で束の間の逸脱を許されることとなる。進級すれば、ますますその傾向は強くなるだろう。中学生、高校生。こうした年齢を経るにつれ、われわれはその逸脱を恒久化しようと試みる。その成功は一人暮らしという形をとって現れるかもしれない。だが、例えば大学を卒業しでもしたら、自らを養わねばならないこととなる。そこに逸脱はない。決してないといってもよいのかもしれない。時は無慈悲にも進んで已むことを知らない。気づけば「老い」が我が喉に刃を立てている。われわれはあの頃を思い出す。鬼の眠る合間の逸脱の時を。
私は何も、青春と呼ばれるものこそが人生でもっとも良いものであるということを云いたい訳では毛頭ない。幸福感というものが年齢に限った話ではないことは誰の目にも明らかである。しかし「青春」という言葉を察知するや、私はその特殊性から、懐かしさとともに、言いようもなく不可解な、或る種の居心地の悪さを感じることがある。いったい、それはどこから立ち現れるのか。実際、私はそのような光景をしばしば目にすることがある。そうした時でさえ、私は首を傾げずにはいられない。こう思うのは、ひとえに私が捻くれているためだけなのだろうか。無意識化に於ける独善的な、何らかの作用にすぎないのだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?