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大人になるということは

写真 2020-05-14 17 36 41

世間はじわじわと、コロナ禍からもとの生活を取り戻そうと動き始めています。まさに「啓蟄」の季節を迎えたかのよう。
これからも「withコロナ」の新しい生活様式をどう取り入れていくかに注視していかなければなりませんし、崩れつつある経済をなんとか支えていく必要もあります。マクロ的視点も大切ですが、そうは言ってもまずは今後の自分と自分の周辺がどう変わっていくかに興味が向きます。

しかしながら本当に大変なのは、学生たちなのではないでしょうか。すでに自覚のある子もいなくはないのですが、私がお世話をしている生徒たちの大半はまだ自分に何が起こっているのかよくわかっていないようです。休校期間が長すぎてもう自分の学校生活が他人事のようになっています。「9月入学」の可能性もようやく議論され始めましたが、やっぱりそれは今じゃない。いま学びの機会を止められている彼らにいち早く学びの機会を取り返してあげるのが、我々大人と教育者のすべきことだと思うのです。

そういえばふと「今頃どうしてるんだろう?」と思い浮かんだのが、就職活動と教育実習。どうやら就職活動は粛々と対面を避けながら行われているようですが、教育実習はどうにもなっていないでしょうね。いやそもそも教育実習ってどの程度必要な単位なの?という疑問もこの期に及んで発生しそうなものです。たしかにぼくにとって教育実習は「教師になるまでの通過点・チェックポイント」程度のものでした。自分が思い描いていた教師と生徒の関係性、自分の教師としての適性、教師という仕事が社会人としてふさわしいものかどうか…生徒とは違った目線で学校を見ることができる最初の機会に過ぎなかった教育実習。

ただ、この一冊を読んで、そればかりでもなかったな…と思い返すこともできました。

古川春秋さんの『二十八日のヘウレーカ!』です。

自分から手に取ることのないであろう、このラノベチックな表紙。なぜ手に取り読むことになったか、といえば、ここ数年、足繁く通っておりぼくのことを熟知している珈琲焙煎屋のご主人が「こういうのも読んでみるといいよ」と貸してくださったからです。

下心たっぷりで教職課程を取り、いよいよ教育実習を迎えるタイミングでその足元を掬われた大学生・加賀谷貴志が、義務感だけで母校の小学校に赴き、受け持った子どもたち、母校の先輩である校長、そして何よりも万能極まりない指導教諭・鞍馬を通して成長していくストーリー。
タイトルの「二十八日」はもちろん教育実習期間を、「ヘウレーカ!」はアルキメデスが浮力を発見したときの感動をそれぞれあらわしています。

たかが4週間、されど4週間。これでもか!と言わんばかりにトラブルが発生しては巻き込まれ、情熱で対処しようとしては失敗し指導教諭に救われる加賀谷実習生。多かれ少なかれ、教育実習とはそういうものかとは思いますが。

思い返せば、ぼくの教育実習期間にも事件がありました…。
ぼくが大学生の頃は教育実習はまだ二週間と程短く、実に「お試し」の感覚が色濃かったわけですが、そんな短期間でも生徒は問題を起こします。我が母校の家庭科室に置いてある「調理酒」で酒盛りをした、受け持ちクラスの男子数名…アホすぎる…。もちろん指導教諭はこのアホどもの対応に追われ、「クラスをお願い!」とぼくを放置。というより、丸投げ。実習生に。しかも二日目にして。しかも教育実習期間は何かしら学校行事がセットになっているもので、この時期にあったのは「合唱コンクール」。会議室待機になっていたあのアホどもは間もなく自宅謹慎処分になり、クラス全員揃うことなく合唱コンクールを迎えねばならないという状況。さらに指導教諭、この事件のストレスから「目が痛くなった」と病院通いが始まり、授業もホームルームも合唱コンクールも何もかも丸投げされるに至ったのでした。
いま考えれば、こんなとこまでよく実習生に任せたな…と感心すらしますね。
まぁ、結果的には、それ以外は何事もなく合唱コンクールも無事にこなして二週間を終えられたわけですが。

話をヘウレーカに戻しましょう。加賀谷先生はと言えば、将来教師になりたいなんて一つも思っていないのに波乱万丈な教育実習の間に教師としての芽が芽生えるわけです。そうです、教育実習というのは本来そういうものです。そういうところを期待されています。学生目線で言えば、自分に教師の適性があるかどうかを見極めるためにあるわけで、加賀谷先生にそういう思いが湧き上がってもなにも問題はありません。しかしながら、作者の古川さん、ここの心の動きを描くのがホントに自然なんですよ。起こるトラブルは破天荒で派手なのに、加賀谷くんの心の動きは非常に繊細に書かれている。このあたりが見事だなぁと。作風自体はミステリー色が強いけど、教育者の機微はよく捉えられている。相当な取材を重ねたのか、それとも古川さんご自身が教育に対して特別な思いを抱いているのか。そのあたりは知らなくてもいいことなので。

この作品、章立てになっているのですが、その中の「薔薇と醤油(いや、醤油と薔薇?)」というお話の中のやり取りが秀逸でした。
ある問題を起こした小学生を指導しようとした加賀谷先生、彼らに「なぜ子どもだったらダメで大人だったらいいのか?」と問われ答えに窮します。学生然とした加賀谷先生には答えを出せません。次第に加賀谷先生は「そもそも大人になるということはどういうことなのか?」と悩みます。
そこで登場するのが指導教官の鞍馬先生です。彼はこの作中であらゆる問題をものの見事に解決していくのですが、ぼくはこの章でのこの問いかけへの解決が一番好き。
問題解決を急ぐあまり、その件の小学生も加賀谷先生も、その答えを鞍馬先生に求めます。そこで鞍馬先生、
「なぜ俺にばかり聞くんだ?なぜ自分で考えようとしない?自分で引き受けようとしないから、お前らはまだ子どもなんだよ。」
「大人ってのは、自分に起きた問題は自分で考えて解決しようとする。そしてその行動に責任をもつ。それができない間はまだまだだ。」
と言い放ちます。

これだよ、これ!!さすが鞍馬先生!!

とぼくも心の中で叫んでしまいました。

正直なところ、ぼくも加賀谷先生のように、「大人になるということ」について明確な答えを持っていなかった。もしそんな生徒が目の前に現れたら、いろいろな具体例を出して言い包めて煙に巻いていたかもしれない。だって、なんとなく「あー、ぼくも大人になったなぁ」って思った時が大人のスタートだと思うじゃないですか。

自分で考えて行動すること。自分の行動に責任をもつこと。つまり、自律人であるということ。

こんな明確なことばを持っている万能感満載の鞍馬先生はホントに人間臭くて素敵なんです。おそらくぼくの実年齢より彼の作中の年齢の方が年下、つまり教育者としてのキャリアも短いだろうに、いやもっと言えば古川さんは作家であるのに、教育者であるぼくに明確なことばを与えてくれました。

ネットでレビューを探したりしてもあまり出てこない作品だし、何よりも現実味の薄いフィクションですが、これは教育者および教育者を目指す人たちはみんな一度触れたほうがいい作品だと思います。珈琲焙煎屋のご主人には心からの感謝のことばを携えてお返ししました。読みたい方はその珈琲焙煎屋をご紹介します。そこで借りて。

そうそう、ぼくが教育実習中にあったエピソードで、いまもぼくが教育者としてとても大切にしている、とある出来事も紹介してこのnoteを閉じたいと思います。

合唱コンクールのために放課後に練習していたクラスメートたち。謹慎中の生徒がいないためにすでに全体が意気消沈していて「これは大変だ…まともに当日を迎えられる気がしない…」とぼくの目にも映っていました。
でも、このクラスでは一度しかないイベントなのだから、なんとか彼らの大切な思い出にしてあげたい、という思いから、鼓舞できる材料を探しました。
そこで見つけたのが、授業中はわりと地味だけど内心目立ちたがりであろうという一人の男子生徒。パートに分かれてぼんやりと皆が練習している中、彼はとても大きな良い声で歌っていたのでした。
これだっ!とばかりにぼくは生徒たちに向かって、
「皆さん!今ここに、ダイヤの原石を見つけました!この原石、磨けばどこまでも輝きを放つよ!」
と、その男子生徒の歌声を褒めちぎりました。これを聞いて、笑う生徒たち、冷やかす生徒たち、「ホントだすごい!」とその魅力に気づく生徒たち…まぁ反応はいろいろでしたが、その男子生徒も悪い気はしなかったらしく、それ以来、彼を筆頭に次第に合唱の声は大きくなりまとまりも出てきて、安心して合唱コンクール当日を迎えることができました。結果は…どうだったっけ。忘れました。

大切なのは、ここからです。

教育実習を終えて数か月経ったころ、教育実習仲間から、「文化祭に行こうよ」と誘われました。もちろんあの教え子たちに会えるのは嬉しいし、数か月を経てどう成長しているかという期待、というか心配もあったので、その誘いに乗りました。

久々の母校に入り、展示物や出店を見て回り、いよいよぼくが担当したクラスを覗こうと向かい始めたところで、何やらそっちの方から走ってくる生徒が。

それは、あの男子生徒でした。ダイヤの原石。

その生徒が開口一番、「先生!このあと音楽室来てよ!」と。
それが何を意味するのか。
文化祭で音楽室と言えば…「文化祭ライブ」じゃないですか。
そうなんです、その生徒、合唱コンクール以来、歌うことに目覚めたそうで、文化祭に向けてバンドを組み、学内オーディションを勝ち抜け、メインボーカルとしてステージに立つことになったんだそうです。
そりゃあ嬉しそうでしたよ、ダイヤの原石。歌う姿もなかなか様になっていました。

真っ先にぼくのところに駆けてきてそんな報告をしてくれた彼、可愛いやつだなとも思ったしその成長した姿に目を細めずにはいられませんでしたが、それ以上に感じたのは
「教師のひとことの大きさ」
でした。

聞いているようで聞いていない、わかってないようでわかっている、それが生徒というものですが、何気ない一言でも心に刺さる言葉になりうる。
ぼくのこのことばは、はたして生徒にとって良いものだったのかどうか。少なくとも彼の人生の何かになったんだな、と思わされ、同時に恐怖を感じた瞬間でもありました。

教育者の背負う責任は重い。
ほんの一言が子どもの人生を変え得る。

この時のエピソードとその時ぼくが抱いた感情は、今でも鮮明にぼくの中に残っています。なによりも大切な経験です。

これまでもこれからも、ぼくは教育者として、自分のことばのすべてに責任をもって生きていかなければならない。
でもそれこそ、ぼくに与えられたこの命を全うする生き方なのだろう、と思えるのは、教育者としての、そして一人の人間としての矜持であるなと思っています。

古川春秋「二十八日のヘウレーカ!」、星3つです!
(この評価が今後何になっていくかは不明)

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