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今日のラブリー!「信頼」

ゆるゆると新年の仕事が始まった。
年末年始は、体調を崩した愛鳥ばなちゃん(ばなな・オカメインコ・♀12歳)のケアを優先しながら、ちょっとのお出かけやおうち時間を楽しんだ。

それでもわたしは、いくらでもばなちゃんと一緒に過ごすことができることに気づいてしまった…!
こんなふうに、どっぷりとケアする愛しい時間があることが本当に幸せだ。

ばなちゃんの体調は、相変わらず上がったり下がったりで、わたしの気持ちも上がったり下がったりのどんぶらこ状態が続いている。
でも、これが生きているってことだなぁとも感じる。

ばなちゃんが最初に瀕死状態になった時、「失う」ことに、ものすごい恐怖と抵抗が襲ってきた。
そんなこと、絶対にあってはならない!まだ早すぎる!イヤだ!と。

でも、その後、何度か繰り返し生死を彷徨っては回復するプロセスの中で、否応なしに「その時」の準備ができてきたようだ。

何よりも、わたしが一番恐れていたのは、ばなちゃんを「看取る」ことができないということだった。ひとりぼっちでいかせるなんて絶対イヤだと、それだけは避けたいと思っていた。

でも、その恐怖とずっと一緒にいてみると、その緊張のエネルギーは、まるで「その時」が起こるのを待っているような感覚になってしまうことに気づいた…。なんてことだ!

だから一度は、ばなちゃんという「存在」との縁とか、これまでの関係性を信頼して「ばなちゃんは、私のいない時にこの世界を旅立つはずはない」ということを信じてみた。
飼い主が戻るのを待ってから、息を引き取るという動物の話を、どこかで聞いたからかもしれない。

それで、夫にその話をしてみたら、あっさりと否定された。
「それはわからないよ。たとえいつ、そういうことがあっても仕方ない。受け入れるしかないよ」

そう言われて、とても悲しかったけれど‥‥確かにそうだ。
本当はわかっていた。
その証拠に、その時わたしの内側にあった、小さくて固い塊のようなものがふわっとゆるむのを感じた。 

わたしが「信じてみた」ことは、単なるエゴ、妄想だった。

いつ、どんな形でばなちゃんが旅立とうと、それがその時だったというだけ。
わたしたちが一緒に過ごした月日が変わるわけではない。
それが本当の信頼。
今までだって、いつだってそれは起こり得ることだったのだ。

今は、やっとそんなふうに思えるようになった。

もちろん、いなくなることへの怖れはなくならないし、弱っている姿に痛みも悲しみもある。

それでも、それと同じくらい、それ以上に、
いま生きている奇跡や愛しさも感じている。

そしてその気持ちは、ばなちゃんという存在を通して、わたしの目に見えるこの世界の全てがそうだと教えてくれている。

どうかわたしが、この瞬間の奇跡を忘れずにいられますように。

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