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(実家あらため)お母さん通信

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週に一度、都内の実家に泊まりで通っています。 こちらのnoteマガジンには、認知症で要介護認定を受けた母と過ごす時間の記録、ぼやきを含めたつぶやきなどをまとめています。 実家から…
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#母

母がゼリーを食べた

台風の最中、施設にいる母の面会にいってきた。 母は先月、病院で胃ろう造設の処置を受けたあと施設に移って、およそ1ヶ月になろうとしている。 私は「胃ろう」について、正直ほとんど知らずにいた。 母の主治医から、このままだと衰弱(死)してしまうからと「胃ろう」を提案され、あわてて調べたくらい。 調べてみて、いろんなメリットとリスクと、どちらもあることを知った。 なんでもそうかもしれないが。 母が救急車で運ばれた緊急時、人工呼吸器の時もそうだったが、今現在の母に、それをするし

おかえり。ただいま。

あの日、産土神社で「てるてる短冊」にしたため願ったことが、今日叶った。 ありがたい。 有り難い。。。! 入院中だった母が、今日、施設に戻ることができたのだ。 戻ったと言っても、まだたったの2泊しかしていなかったけれど。 あれから2ヶ月近くの間、あんなこと、こんなことがあった。 考えても、悩んでも、答えの出ないこともたくさんあった。 最終的に母は「胃ろう」の処置を受けて、生き延びたのだ。 いろんな考え方があるだろう。 母がそれを望んでいたかもわからない。 せめても

祝・卒業

母が実家を卒業してから、ひと月以上が過ぎた。 思いもよらない展開にはなったけれど。 その後、しばらくはいろいろな事情で実家通いが続いたけれど、ひと月が過ぎて、ついに私も実家へ行くことがなくなった。 今後、積み上がったモノの整理や片付けには行かなくてはならないだろうし、時にはきょうだいで集うこともあるかもしれない。 けれど、機能不全が起こりつつあった家族の見守りと、寄り添いのために始まった「実家お泊り」のお勤めは、およそ4年で終わった。 私もいつのまにか「卒業」していた

母親と産土さまと

このつぶやきが3週間も前だったとは。 この翌日、夏至を迎えたのだな、とこの間を振り返る。 いろいろあった3週間。母はがんばって生きている。 この前の面会の帰り道、産土神社に立ち寄った。 母の入院している病院の、すぐ近くなのだ。 私が自分の産土神を知ったのは、ほんの数年前のこと。たまたま鑑定できる方とご縁がつながり、調べていただいた。 その時は、産土さまが生まれる前から私を守ってくれていたなんて!と感慨深かった。 そして、調べてみたらなんと!そこは以前、お友達が私が「好き

母の面会へ。ちょうどリハビリ中でベッドの上で必死に身体を動かしていた。必死とはこのこと。ほんの数週間前までウロウロ徘徊していた母が夢のよう。母をみながら自分の身体が思いどおり動くこと、物を噛んで飲み込めること、声を自由に出せること、肉体という宇宙の神秘に気づく。すごいことなんだ。

世にもウザくてうれしい日

怒涛のひと月のあとには、怒涛の3日間が待っていた。 母が実家を卒業、施設に入居しホッとしたのも束の間、2日後に誤嚥性肺炎の症状で救急搬送された。 その時間、4人きょうだいの中で連絡がついて駆けつけることが可能だったのが私(だけ)。 病院につくと母は超重症な状態、その場で人工呼吸器をつけるかつけないかの判断をしなければならなかった。 しかもドクターの話では、88歳という母の年齢や今の状態から考えると、おそらくつけたら死ぬまで外せないだろう、口から食べることもできず、施設

卒業の日

怒涛のひと月が過ぎた。 綱渡りのような、決して落とせないバトンリレーのような。 人間はこんなにももろく そして、たくましいのかを感じたひと月だった。 悲しくて辛くてイライラして腹が立って切なくて 眠いけど眠れなくて。 でも同時にそんな中 家族、きょうだいみんなの優しさや陽気さや 瞬発力やあれこれを工夫する創造性やら。 緊張感の続く、大変な状況でしか生まれない底力が、この時期を支えてくれた。 おかしな言い方だが、私のどこかでは、この「大変な状況」を楽しんでいたし、き

母がデイサービスでカーネーションをいただいてきた。まだ数回しか訪れていないのに、スタッフの方々が寄せ書きしてくれた感謝状も添えられていた。「いつもありがとうございます」「お会いするのが楽しみです」「優しい笑顔とお声が大好きです」「これからも一緒に楽しみましょう☺︎」有り難くて泣く。

夕食後、実家に一つだけある苺スプーンで苺をつぶしイチゴミルクを作っていたら母が自分もそうしたいと言う。スプーンを渡したら「こりゃ便利」と嬉しそうにつぶしている。練乳と牛乳をかけてあげたら「こりゃ美味しいわ!」とまるで初めて食べたかのように無邪気に喜んでいる。’忘れる’ことも佳き。

紆余曲折ありつつもついに母が初めてデイサービスに(半日だけだけど)1人で参加してきた!途中で帰ってこなかったのは初めて!お昼ごはんもいただいてきた。有り難くてサクラサク気持ち。帰宅した母に「今日は何したの?どうだった?」と聞いたら「まったく人付き合いも大変だよ」だって。ウケるー。

今日は父の命日。あれから19年。あの日も桜が咲いていた。そのせいか桜が咲くと少し寂しくなる。父が全てだった母は、毎年この日のために精を尽くし韓国式の祭礼の準備をしていた。今年は何の日かもわからなくなり、祭礼もあっさり省略となった。これでいいのだ。お母さん、これまでご苦労だったね。

すっかり歯も弱くなってしまった母は、固いものを嫌がる。入れ歯だから歯ではなく、歯茎が弱くなったということか?母の最近のお気に入りは、ネギトロ、茶碗蒸し、プリン、あんパン、蒸しパン、はんぺん…などなど。付き合って食べていたら、なんだか私も頭フワフワしてきたような。おせんべ食べたい。

食べてもらうしあわせ

最後に母が作ったものを食べたのはいつだったのだろう。 料理好きだった母が、料理をしなくなり半年近くが過ぎた。正確にはできなくなって、だが。 今でも私たちが「お母さん、このキャベツ切ってくれる?」「これ菜箸で炒めてくれる?」とお願いする形で作業をしてもらうことはある。 すると、迷いなく手は動く。何十年やってきたことだ。体が覚えている。 料理をするということは、思っている以上に様々な段取りや手順があることにも気づく。 人間には、食べる幸せのほかに、食べてもらう幸せ(食べさせ

久しぶりの晴れ。抑うつ状態の母を促し散歩へ。よかった。その気になってくれた。お日さまのおかげ。歩き出すと前より更に歩幅が小さくなってしまったよう…それでも88で杖もなしで歩いているからいいのかな。あれこれ思いが巡る。ふと足元に黄色が目に入る。タンポポだ。何はともあれ春はくるのだ。