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弱者性

学校の教室で、どこか馴染めなかった。話す友達も話しかけてくれる友達もいたし、陽キャも基本的には優しくて歩み寄ってくれた。環境的には恵まれていた。なのに、馴染めなかった。当時厳しかった部活の顧問に個性を潰されるようで息苦しかったが、そんな顧問を崇拝している同じ部活の仲間のことを本気で馬鹿にしていたし、笑っている人間は全員頭が悪そうに見えたし、好きなものに対してファッション感覚で喋る人間のことを軽蔑していた。こっちは本気でやっているのに…
頭のどこかでは気づいている。きっと頭が悪いのも、社会性がないのも、全部こっちなのだ。馴染めない理由は、私のせい。周りの人間は何も異常じゃない。ルサンチマンに浸ってると、何故か自分ではなく周りがおかしいのではないかという気持ちにさせられるのだ。
社会に馴染めない自分を、自分ではない誰かに認めて欲しくて外面だけは取り繕うと必死になる。そうすると、何が自己か境界がわからなくなり、表面的に解決しようとするとすればするほど不安や狂気を助長していく。自業自得である。
一貫した自分を保てない。常に不安を感じ、自己がどんどん曖昧になって崩れやすくなる。1本抜いたら崩れるジェンガのような繊細さなのだ。
そんな不安さは年々肥大化していく。
自分にとって不快なものを切り落としたり、逆張りをしていくほどどんどん息が苦しくなる。排除すればするほど、足場がなくなっていくのだ。
足場がなくなれば、落ちるだけ。命綱なしのバンジージャンプが始まる訳だが、そんなガッツも勇気もないまま漠然と自分がどう生きるかを考えなくてはならない。

きっと私に必要なのは、色んなものを柔軟に受け入れ、理解するということなのだと思う。
強迫観念から逃げる生活にはもう飽き飽きだ。良いものを良いと認めて、素敵なものや美しいものに素直に頷ける。弄れた気持ちを変える必要があるのだ。
でも、それをすると私という人間ではなくなってしまうのでないか?そんな恐怖ももちろんある。
要は、八方塞がりなのだ。
この弱者性から逃げきり、自分を保てるようになるまで、私はこの乖離した感情達と戦わなくてはいけないのかと思うと気が重い。
他人からの批評や批判が気になる人間がもはや羨ましい。自自分との戦いで常に緊迫しているし、結論もそこで出してしまうが故に周りに興味を持てない。つまり、余裕がないのだ。

今年こそは意固地にならずに、自分に色んな面があることを認め、何とか自分をうまくコントロールしうまく歩けるようになりますように。

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