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私とTwitterという沈みゆく泥船

Twitterが終わりに近づいてると感じるのはきっと私だけではないのだろう。みんな、次の新天地を探してる。沈みゆく泥船を見ながら次の泥船を選んでいる。結局SNSはなんてものはどれも泥船で、泥船の中からいい船を選ぶしかないのだ。
そんな私も、次の新天地をどうしようと思いつつこの沈みゆく船に思いを馳せたりする。
思えば自分がTwitterを始めたのは2012~2014ぐらいの中学生の頃で、さすがにそのアカウントは残っていないけれど、2017年から使っているアカウントが私の無数のアカウントの中に残っていたりする。
Twitterは思い出だ。ここまでTwitterのことが惜しいなと感じてしまうのはきっと思い出だからなのだ。
別にTwitterがこのまま終わろうと、友好関係やインターネットは終わらないしきっと日常生活は何も変わらないけれど、自分の中の良い思い出が1つ消えてしまう。そんな気持ちになるのだ。
別にTwitterをやってていい思い出ばかりだった訳じゃない。訳の分からない思想の強いツイートや、行き過ぎたミーム、誹謗中傷、1人の人間を寄って集って叩く。そんなのはざらにあって、みんな必死にレスバをしたり貶しあったり実際に自分も噛み付いたりなんかして、そんな思い出ばっかりだ。
でも、それもなんだかんだでインターネットのいい思い出なのだ。偉い人に怒られたり、クラスの陽キャが優しく喋りかけてくれたのにうまく話せなかったり、同窓会の誘いを断って正月中々帰れなかったり、本当に仲のいい友達が行方不明になったり…そんな苦い思い出なんかじゃない。
それに小さな楽しさや一体感、パッと目を引く面白い文章や写真、こんなこともあるんだと知れた有益な文章があったり、なにより自分もキモオタなだけありキモオタの書く文字が好きだったりして…
そんな小さないい思い出があるからこそ、まだ新天地は探さなくていいのでないか?という気持ちにもなる。
わざわざ文章をほぼ書いたことのない素人が、noteというテキストに残してまでTwitterの思い出を書き出すのだから、もう少しTwitterと一緒にいたいに違いない。
結局は思い出から離れるにはまだ腰が重い、そんな話な訳なのだ。
本当にこのSNSがダメになるまで手を握ってるからね。

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