2023/01/25

一昨日のつづき。先生と生徒の権力構造の話。

“教育現場において、先生と子どもの間には必ず権力関係が生じる。そうでないと学びは始まらない。子どもが先生に対して、「この人の言うことは絶対だ」「この人のようになりたい」といった感情が湧いてきて、その人の全てを模倣し、その人自身になろうとするような「欲望」が生じて、初めて「学び」が可能になる。”

ここで大事なのは、先生たちが望んで権力を持つというわけではない、ということだ。「先生」たちは、「先生」になった途端、「先生ー生徒」の権力構造の中に組み込まれ、権力を「持ってしまう」。どれだけ生徒とフラットな関係を持ちたいと願ったとしても、先生になった瞬間に、この「先生ー生徒」の権力構造の渦に巻き込まれ、そこに必ず権力の勾配が生まれ、フラットな関係であることは決してありえない。
でも、そうやって構造的に持ってしまう権力を自明視せず、子どもとフラットな関係でありたい、同じ目線でいたい、という思いがあるからこそ、子どもと心を通わせることができるというのも事実なんだと思う。

ただ一方で、この権力構造を利用した信じられないような犯罪も起こっている(去年8月の四谷大塚の講師による盗撮事件なんで酷すぎる)。また九州の中学校であった「水滴チェック」のような訳のわからない、セクハラまがいの学校の規則なども依然として存在している。これは「先生ー生徒」という権力構造の完全な悪用であり、子どもを一人の人間として扱っていないということでもある。
子どもにとって、学校は彼らの人生の全てであり、そこで自らを否定されたら生きていくこと自体に大きな困難が生じる。そんな子どもの生を質にとり、(自覚的であれ無自覚であれ)自らの権力を振りかざす大人に、子どもと関わる資格はない。

先生と呼ばれる人たちは、この「先生ー生徒」の権力構造の中に自らが巻き込まれていることを自覚する必要がある。この権力構造があるからこそ、子どもの学びは可能になるし、一方でその権力を無自覚にも子どもに振りかざして、子どもの人生を壊してしまう可能性だってある。先生と呼ばれる職業についてしまった以上、このジレンマの中でもがき苦しみ続けるしかない。
(個人的には「先生」と呼ばれることにいまだに違和感があるし、生徒と同じ目線でしかいられない、というような感覚がある)

明日は都立高校の推薦入試だ。みんながんばれ。

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