見出し画像

映画『ボーはおそれている』感想

まえがき

①映画の内容、ネダバレをがんがんやってます。
②映画に関係していると筆者が思った別の(映画や漫画といった)作品のネタバレも気にせず書いてます。
③感想の中には、社会的にデリケートな話題にも触れています。DVも含む家庭問題や、殺人、死刑など。


感想1(筆者が感じたことの概要)

アリ・アスター監督の新作を鑑賞したので感想。

まず、この映画はいわゆる「ホラー映画」だとは思いませんでした。ファンタジーや、サイコサスペンス、スリラーといった(…それってホラーじゃないの?)と言われるような見せ方/表現は多いものの、それでも、基本的には「ヒューマンドラマ」だった。そう思います。

ただし、(ホラー)映画ファンにはツボな、というか監督は本来そりゃ専門の世界でリスペクトしている作品や、やってみたい手法がもともとたくさんあって、過去2作の成功から、こういうハイコンテクストな作品をいよいよ作ったんだろうなという感じ。一見、分かりにくい。

『ヘレディタリー』『ミッドサマー』は映画オタク的に参照が思い浮かべられたりしなくても、そこは別に関係なく(ホラーが観れる人なら)楽しめるような仕上がりだったと思う。

また、3時間という長尺は必ずしも必然的だったと思えない感じもあり、かなり奇想曲(確たる様式や形式のない曲想)だなと思いました。その意味で、主演ホアキン・フェニックスちょっと贅沢では?とかも思った…。

ただ、そういったことよりも、どちらかというと「問題作」だなということでかなり印象に残りました。

この作品は完全にやってるわ。

…というのも、これってあまりに「現実は既にディストピアとしてある」ということを、直接的に描いていると感じたからです。

結論から言うと主人公ボウには、人権がない。

つまり、母親の創作物あるいは作品としてプロデュースされた存在がボウなので、彼が「自分なりに」とった行動や思考さえも、実際は必然的に産み出された、あるいは誘導されたものであり、その主体性のなさ(主体性なんて育つわけない)故に母親の期待に応えられない人生。

…にも関わらず、実際はそうプロデュースした母親としては、期待に応えない子供(作品)は、いらないものとして処分する。

そんな結末が描かれています。

過去の作品にあたる『ヘレディタリー』『ミッドサマー』では、とっっっても最悪なタイミングや唐突な展開でスプラッター描写をはじめとしたホラー演出がなされ、言うならば「効果的に」「機能的に」「そういうエンターテイメントとして」、まだわかりやすくホラー映画でした。

加えて、カルト宗教がモチーフであったりと、多くの人には非日常的なシチュエーションで描かれていたと思うし、けれどそんな不条理世界であっても、見方を変えればハッピーと思える皮肉や視点の逆転がありました。

仮に社会的/一般的/大衆的な幸福や倫理に則る形ではなくても、この状況なら主人公の気持ちわかるわ~!という共感や、自分と立場/環境の違う人や物事への想像力や問題意識を働かせる機会になり得る。そんなホラー映画(エンターテイメント)になっていたと思っています。

つまり、過去2作品は「ホラー映画」という忌避感や嫌悪感を持たれる形式とはいえ、酷い印象であっても希望や社会性(共感性)を見出だせる作品と思えました。

ところが『ボーはおそれている』では、不条理な現実をむしろありのままに描いており、それが「ホラー映画であるかのように見える」というのはあまりに希望がない。

これは、アスター監督が作った作品というより、まさに「呪い」そのものだなと。

実際にプロモーションの一環として行われた対談では、アスター監督にとっては「日常」であることが語られています。


感想2-血の轍-

感想1で引用している対談には、押見修造の漫画作品『血の轍』が話題として取り上げられています。

いわゆる毒親/モンペアの下で育った主人公静一は、自立した個人として成長することが難しく、思春期における他者への共感性、異性への関心といったことすべてが否定されながら生活します。

その成長過程の問題から、結果的に殺人者となり、母親からは育児放棄を受け、父親とも死別し、自分の生について絶望したまま成人・青年となり、ただ死んでないだけの在り様が描かれます。

この漫画表現の中では、ホラー的な演出やアート的な描写が用いられ、ファンタジックな、現実と妄想の区別がつかないような描かれ方がなされいて、確かに『ボーはおそれている』と接近した位置にあると思えます。

そんな作品でさえ、主人公静一が母親(というより静子という個人/他者)と向き合えることや、個人として生きることはできる様子も描いており、少なくとも、日常の風景(自分の生きている現実)に「きれいだ」という主体的な感情の持てる一人の人間へと、長い時間をかけて回復します。

さらに途中途中では、裁判や少年の更正施設での、とても事務的な手続きが、しかし一方で虐待を受けて育った静一をある程度「人」として平等に守る社会の様子が淡々と描かれていたりします。

また静子が母親(毒親/モンペア)となった背景には、時代の流れや田舎の閉鎖的な家族コミュニティといった、現代の視点で見れば、日本社会のある種カルト的な側面にも原因があったことも示唆されます。

『ボーはおそれている』には、母親と子の和解や共通認識はほぼ描かれず、克服や回復も皆無です。主人公は失敗作のレッテルが貼られ、殺されます。

感想3-ダンサー・イン・ザ・ダーク-

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、未だに空前絶後の「鬱映画」としてホラー映画『セブン』『ミスト』と並んで紹介されるほどの作品ですがホラー映画でなく、明快にミュージカル、かつヒューマンドラマです。

目が見えなくなっていく病気の主人公は、同様に遺伝的な病気から目が見えなくなっていく我が子に手術を受けさせるための費用を稼ぎます。しかし、近隣トラブルから濡れ衣を着せられ、死刑となります。

かなり不条理な作品ですが、それでも、目が見えない(見えなくなっていく)主人公だからこそ、本来であれば悲しみや絶望の渦中にあるにも関わらず、音楽が鳴っていて、皆が踊る世界を生きています。それは逃避でもあるものの、自分が正しい、良くなると思う行動を選択し、絞首刑に向かう階段でさえ、自らステップを昇ることができる。

絶望し、ただ受け身で死んだではなく、希望をかけて前向きに生ききった主人公の首吊り死体が映される静寂のエンドロールでは、観客は氷りつきますが、それはそのまま、社会的弱者に対する問題意識へと結び付けられます。

たとえ目が見えていても、私たちは幸せな、正しい世界にできているか?

『ボーはおそれている』は、まさにこの作品と対(極)です。裁判のような様相であるものの、明らかに母親の土俵にあり、演出的に用意されたボウ側の弁護人は無惨に殺されます。

ボウは何も選ぶことができないまま殺され、そのままエンドロール(ここは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と酷似した演出だと感じましたが、受けとることができる意味は全然異なっていて、不条理と絶望の後味しかありません。そこから何かを見出だせるような、想像力を働かせる余地がない、何も思い浮かばない。)

ボウの死後、その場にいた観衆(たぶん母親の会社の社員)たちは、定時退社のようにただ去っていくのみ。悲しむ人など誰もいません。

3時間の旅をボウと共に過ごしてきて捨てられた私たちだけが、その場から立ち上がれず、エンドロールに釘付けにされたままです。

感想4-トゥルーマン・ショー-

『トゥルーマン・ショー』は、孤児として生まれた主人公が、テレビ番組のプロデューサーに引き取られ、人間関係から生活環境まで、人生すべてが作られた世界を生きている物語です。

恋人や将来の夢さえ、すべてがプロデュースされ、しかも、その様子は大衆に向けてテレビ放送され続けているというディストピアが描かれます。

しかし、主人公が境界線の向こう側、「何もない」とされている世の果てを自ら確かめたいという夢は、当初はある程度プロデュースの中に、予定調和的に組み込まれたものでしたが、むしろ他の、作られた世界に気づかせないための夢が後から魅力的に用意されたにも関わらず、主人公は主体的にそうしたい(向こう側を確かめたい)と強く思います。

一人で、自分の知らないものしかない世界へ踏み出すというのは、危険も伴うし、あっけなく死んでしまうかもしれません。

それでも、物語のエンディングでは、用意されていたすべての幸せよりも自分の人生を始めることを選択し、父であり母、世界であり神であるプロデューサーの箱庭から去っていきます。

その、決して予定されていなかった番組の最終回は、多くの人が支持し、肯定するエンディングとして描かれていました。

フィクションとしてディストピア的な、倫理から外れたシチュエーションを描いているものの、たとえそういった状況でも、人には尊厳があることを示していると思います。

『ボーはおそれている』では、ボウはやっと自らの意思で母親を拒絶し、首を絞めて殺し、ボートで海へと脱出した…かのように見えますが、実際は逃げ場のない場所に身動きできない状態で拘束され、母親は生きており、選択肢なく、死が待っています。

感想5-その他、筆者が体験してきた(ホラー)作品-

たとえば主演のホアキン・フェニックスが過去に演じた『ジョーカー』では、ヴィラン誕生の秘話として、エンターテイメント性強く、悪にならざるを得なかった人物を描いています。

しかしボウは悪になることさえできません。

残酷で非倫理的、過剰なほどのスプラッター描写のある『ハウス・ジャック・ビルト』では、建築家を目指すも、一向に良い作品が作れない主人公が、ちょっとしたきっかけから殺人に手を染めるも、それがバレない。

殺人はエスカーレートしますが、いよいよ逮捕かという時に、自らが人の死体を繋ぎ合わせて作った醜悪でくそダサい空間の下に逃げ道があります。

その先は地獄へと続いていますが、その地獄さえもうまくスキップできると過信した主人公はとうとうその底へと墜ちていきます。

劇中、これでもかといわんばかりに殺人や建築が作れないことへの言い訳/正当化を重ね続ける主人公ですが、最後はきちんと墜ちる。

ボウは殺されますが、一方的に自分の育児やプロデュースを正当化して、神でもあるかのように社長として君臨している母親はチートモンスターで、当たり前に処刑を行い去っていく。

感想6-終わりに-

自分が観てきた(ホラー)映画の多くは、フィクションとして現実では起こっていない、現実に近いけれどそう認識されていない幸福なことや最悪なものを描き、けれどそこに問題意識や共通認識を生んで、社会の中で発信され、鑑賞され、交信されていると思います。

最悪な出来事を描いていたとしても、一応は作品として納得はできるというか。

しかし『ボーはおそれている』は、フィクションであっても直球すぎるのでは…。結末はどうにもならない。納得するとかしないとかでない。

人権なく人生を搾取されて処分される主人公。抜け出せない主人公。個人になれない主人公。

既に公開されていることもあり、「ホラー感は薄い」「複雑で不条理」といった評判が散見されますが、本質的にホラー映画でないこの作品が大衆に向けて公開されているという現実(今こういう世の中であるということ)が一番おそろしいと思います。

あとがき

映画タイトルは『ボーはおそれている』ですが、字幕上映での翻訳では、主人公は「ボウ」とあてられていて、劇中聞こえてくいた発音的に「ボウ」の方が違和感がなかったので、倣っています。

『ボーはおそれている』公開前に上映されてた『オオカミの家』の監督らは、今回のアスター監督の作品にもアニメーションなど美術系のスタッフとしてキャスティングされてます。こちらの作品についても感想書いています。

ほんとにどうでもいいことですが、この作品は旅行中に空き時間があり、上映スケジュールともタイミングが合ったので東京で鑑賞しました。

普段住んでるところの近所にある映画館で観なくて、ほんとに良かったです。こんなおそろしい作品は生活圏から離れたところで観て、ほんの一時の、旅の思い出にしてしまう。結果的にそうできて良かった…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?