本稿では、ウォーラーステインの「近代世界システム」における「中核諸国」に着目して、帝国主義時代から第二次世界大戦終結までの国際社会を論じる。
世界システムの条件は分業体制と多数の文化である。世界システムは二種類に分けられ、本稿で適用する「世界経済」においては全空間を覆う単一の政治システムが欠落している。このような「世界経済」の先進地帯が「中核諸国」と呼ばれる。
1881年以降、列強(つまり、中核諸国家)は帝国主義を実行するようになる。
1882年、ドイツはイタリア・オーストリアと三国同盟を結んだ。さらに1887年、ロシアと再保障条約を結んだ。しかし、ビスマルク失脚(1890年)後、再保障条約は更新されなかった。
1894年、フランスとロシアは露仏同盟を成立させる。ビスマルク体制崩壊後、列強は帝国主義に基づく同盟外交を展開するようになった。
1899年、イギリスは外交的孤立の不利益を悟るようになった。イギリスは日英同盟(1902年)、英仏協商(1904年)、英露協商(1907年)と次々に諸外国と協力関係を結んだ。
こうして、列強は二つの陣営に分かれた。両陣営は互いに軍備拡大を競い合いつつ均衡を保つ「武装した平和」の状態に入った。
サライェヴォ事件(1914年)をきっかけとして、第一世界大戦が勃発した。第一次世界大戦の惨禍の規模は未曾有なものになった。
第一次世界大戦の講和の枠組みは、アメリカ大統領ウィルソンの十四カ条とされた。十四カ条は、秘密外交の廃止・自由権の保証・軍縮・植民地再配分要求の公正な調整・主権尊重・民族自決を掲げている。さらに十四カ条は、主権尊重を保証する国際組織の設立を予定していた。ヴェルサイユ体制と呼ばれるのは、十四カ条その他によって形成された国際体制である。
ただし、ウィルソンの十四カ条は結局、貫徹されなかった。実際、いくつかの国家はヴェルサイユ体制に対して消極的であったし、敗戦国やソ連はそもそも体制から排除された。しかも、民族自決は相対的な権利としてではなく、一民族一国家という単純化したスローガンとして理解された。
ヴェルサイユ体制は第二次世界大戦以降、修正される要素を含んでいた。つまり、民族自決や主権尊重はヨーロッパに限定されたのだ。植民地の人々はこの枠組みから排除された。
1920年以降、ヨーロッパではファシズム政府・軍事(国王)独裁が次々に成立した。日本では五・一五事件、二・二六事件などを通じて、軍部が政治的影響力を強めていった。
ファシズムの目的は国家の危機を克服することである。その目的に適うよう、ファシズムは国民を一元的に国家のもとに統合し、国民生活を統制する。それに対して、連合国は民主主義や基本的人権、諸民族・諸国民の共存といった近代の価値観を擁護した。
第二次世界大戦は、連合国がファシズム諸国家に勝利して終結した。
ビスマルク体制崩壊後、欧米国際社会は秩序を失った。実際、列強は植民地獲得競争に勝利するため思惑をめぐらせ、さまざまな国際関係を結んだ。その帰結が英独両陣営の対立であった。
帝国主義的対立は、世界を破局に導いた。第一世界大戦後、世界秩序の再建が試みられた。しかし、再び世界は二分され、戦争の惨禍に巻き込まれた。
大地は有限なのに、帝国主義には限界がない。だからこそ、競争が臨界点に達すると、いとも簡単に破局に至ってしまう。人間は稀少なものをめぐって、簡単に徒党を組んで争ったり、弱いものいじめをしたりしてしまう。難しいものだ。