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仏教入門としての日蓮聖人の御遺文(3)

この記事は、仏教入門としての日蓮聖人の御遺文(2)の続きです。

前回は、あらゆる苦しみの原因が、無我であることに対する無理解にあるということを説明しました。では、無我であることを悟り、釈尊と同じ境地に達するにはどうすれば良いのでしょうか。前回までにお話しした「南無妙法蓮華経と唱えれば釈尊と同じ境地になれる」というのはどうしてなのでしょうか

釈尊のような悟りの境地を、涅槃と呼びますが、涅槃に至るのは、本来大変困難なことです。これは、仏教についてあまり詳しくない人でも、「なんか大変そうなことだな」というイメージはなんとなく共有されていることでしょう。
仏教において涅槃の妨げになるのは、貪・瞋・痴と呼ばれる煩悩、すなわち執着の心ですが、これを全て捨てなければならないので実際問題大変なことです。

そのように、悟りを開いていない我々は釈尊の境地を非常に遠いものと感じてしまいますが、一方で、悟った人間の立場から見ると、涅槃の境地は決して遠い物ではなく、実は我々の見る世界と表裏一体のものであると説かれます。

この「仏の境地、涅槃の境地が我々から遠く離れたものではない」という概念をさらに深く理解するためには、第二回でも登場した仏教の根本思想である「縁起」についてもう一度考える必要があります。

浄に依存しないでは不浄は存在しない。それ(不浄)に縁って浄をわれらは説く。故に浄は不可得である。
不浄に依存しないでは浄は存在しない。それ(浄)に縁って浄をわれらは説く。故に不浄は存在しない

龍樹『中論』中村元訳

「浄(綺麗である)」というのは、「不浄(汚い)」という概念がなければ成立しません。逆もまた同様です。「汚い」ということを離れた「綺麗」という概念は存在するでしょうか。他には、「長い」と「短い」という概念についても同じことが言えるでしょう。「長い」とは何に対する「長い」なのでしょうか。あるいは、「父」と「子」についても、「父」がなくては「子」はありえず、「子」がなくては「父」はありえません。(「子」が生まれる前ならば、「子」がいない「父」が存在しうると思うかもしれません。しかし、「子」がいないのに、なぜ「父」と呼べるのでしょうか)

これらはほんの一例ですが、仏教ではこのような意味的な相互依存の関係が、あらゆるものに対して例外なく適用できると説きます。この相互依存によって成り立つことを縁起と呼びます。

ここまで読んで、第二回を読んだ人ならば、以下の経文を思い出すかもしれません。

比丘たちよ、生は常ならざるもの、人のいとなみによるもの、条件によって生ずるもの、なくすことのできるもの、こわれてしまうもの、貪りを離るべきもの、そしてなくなるものである。

増谷文雄(訳)『阿含経典1 』筑摩書房(p.143)

「条件によって生ずるもの」が縁起を指していることを第二回で説明しました。縁起が「相互依存」であることは話しましたが、この「条件によって生ずる」というのは、一見すると相互依存ではなく、一方向の依存に思えます。先の「父」と「子」の例で言えば、「父」というのが条件で、その条件によって「子」が生じます。しかし、実際には先述の通り「父」も「子」なくしては成立し得ません。

なぜ、先に引用した経典では、「縁起」と言いつつ一方向の依存のような表現をしているかというと、これは仏教の最初期に説かれたお経だからです。「縁起」という言葉は、仏教の歴史の中で、意味が少しずつ変遷し、一方向の依存から、双方向の依存、相互依存を指すようになりました。そして、一方向の依存では論理として不完全であることが、『中論』を記した龍樹菩薩によって指摘されています。

話が少しそれましたが、「あらゆるものに例外なく相互依存の関係がある」ということを理解していただけたでしょうか。

さて、ここで涅槃の話に戻ると、涅槃に至った「仏」と我々のような一般の人間(「衆生」と呼びます)の関係にも、実は相互依存の関係があります。

是の如く我成仏してより已来甚だ大に久遠なり。寿命無量阿僧祇劫常住にして滅せず。諸の善男子、我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶お未だ尽きず。復上の数に倍せり

『法華経』如来寿量品

これは『法華経』での釈尊の言葉です。釈尊が無限の過去から未来にかけて衆生を教化していることを意味します。仏教における修行とは、他者を教化することも含まれますが、釈尊も無限の過去から衆生(我々のことです)を教化し続けて仏とすることで、その功徳によって仏となっています。また、釈尊は無限の未来にも教化を続け、その功徳によって仏であり続けています。我々も例外なく、その教化を受ける対象となっています。ただ、その「教化を受けている」という事実に気づけるかどうかは我々自身にかかっています。

柔和質直なる者は 則ち皆我が身 此にあって法を説くと見る

『法華経』如来寿量品

このように、釈尊と我々の間には「教化するもの・されるもの」という相互依存の関係があり、釈尊から直々に教えを受けている我々は、本来であれば仏と表裏一体の、決して遠い存在ではないのです。しかし、いくら「仏と表裏一体」と言われても、何もしなければ今までと変わらず、欲にまみれた凡夫のままです。理屈では仏に近いものの、実際には仏というわけではありません。そこで、仏になるためのいわば最後の鍵として「南無妙法蓮華経」と唱えることが必要なのです。

日本と申す名の内に六十六箇国あり。出羽の羽(は)も奥州の金も、乃至国の珍宝人畜乃至寺塔も神社も、みな日本と申す二字の名の内に摂まれり。天眼をもつては、日本と申す二字を見て、六十六国乃至人畜等をみるべし。法眼をもつては、人畜等の死此生彼〔ここに死し、かしこに生る〕をもみるべし。譬へば、人の声をきいて体をしり、跡をみて大小をしる。蓮をみて池の大小を計り、雨をみて龍の分斉をかんがう。これはみな一に一切の有ることわりなり。

報恩抄

なぜならば「妙法蓮華経」とは法華経の正式名称ですが、この名称には法華経の全てが含まれているからです。ちょうど、「日本」という国名が日本の全てを表しているかのようなものです。そして、「南無」とはサンスクリット語で帰依するという意味ですが、法華経に対して「南無」する、つまり帰依することで、法華経の教えの全てを受け入れることになるのです。先に述べたような、釈尊の寿命が無限であり、今も我々を教化しているということは、あらゆる仏典の中で、法華経のみに説かれていることだとされています。そうした法華経の教えを信じることにより、我々は決して仏と隔絶された存在ではないという真実に立ち返り、釈尊と深いつながりを持つことができるのです。

我れ深く汝等を敬う、敢て軽慢せず、所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし

『法華経』常不軽菩薩品

さらに、口でただ唱えるだけでなく、「南無妙法蓮華経」で表徴される釈尊の精神を、我が身で体現していくことも必要です。その理想的な例として、法華経には常不軽菩薩という修行者が登場します。常不軽菩薩は、出会うすべての人に対して、自分自身と同様、仏になることができる存在であると説き続けました。口に南無妙法蓮華経と唱え、それによって釈尊と我々が一体であると信じ、他者に対しても仏として敬う姿勢、これが我々が仏になる道なのです。

ここまで、多くの理論について説明しましたが、このような理論で本当に仏の境地になることができるのか、と思うでしょう。その疑念を晴らすには、「南無妙法蓮華経」のお題目を実際に唱えながら生活してみるしかありません。

これは私の個人的な体験ですが、何か強い苦しみを感じている時に、「南無妙法蓮華経」と唱え、あるいは心に念じ続けていると、不意に霧が晴れるかのように、心が軽くなる瞬間が来ます。そして、心が軽くなれば、その苦しんでいた事柄も自然に解決の方向へと向かっていきます。第一回で、「極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず」という御遺文を紹介しましたが、それが穢土での修行を乗り切る鍵だと思います。

理論に関する説明は一旦今回までですが、次の回では、実践の手引きになるような本や動画を紹介できればと考えています。

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