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仏教入門としての日蓮聖人の御遺文(2)

(この記事は「仏教入門としての日蓮聖人の御遺文(1)」の続きです)

先日noteを公開し、何人かの親しい人たちに読んでもらったところ、ある人から「現実世界で生きることが修行であるという事は理解したが、修行にしても辛く耐え難い」というコメントをもらいました。

その気持ちは理解できます。釈尊も、「生存は本質的に苦である」という真理を説かれました。この真理は「苦諦」と呼ばれますが、「現実世界を生きるのはつらい」というその言葉はまさに苦諦を表していると言えます。

しかし、これは誤解してはならない事ですが、釈尊は決して「辛いまま我慢して生きろ」ということを説かれているのではありません。我々は、釈尊の教えの力を借りることで、この混乱と不安に満ちた現実世界の苦しみと折り合いをつけながら生きていくことができます。今回はその方法について説明します。

苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうち唱え居させ給え

四条金吾殿御返事

日蓮聖人の文章です。苦しい時も楽しい時も「南無妙法蓮華経」という言葉、これは「お題目」と呼ばれますが、とにかくこの言葉を信じ唱えるべきだ、ということです。この現世で生きることはつらいですが、ひたすら「南無妙法蓮華経」と唱えることにそれを乗り越える鍵があるのです。それは何故なのでしょうか。

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまふ。

如来滅後五五百歳始観心本尊抄

これも日蓮聖人の文章です。難しい言葉が並んでいますが、「南無妙法蓮華経」の言葉を日々唱え、その言葉の力を信じ続けることで、お釈迦様の悟りの境地を我々も自然に譲り受け、成仏することができるということです。

では、成仏とはなんでしょうか。日本では「成仏」という語が人が死んであの世にいくことのように用いられることが多々ありますが、それは極めて通俗的な用例であり、本来の意味ではありません。

本来の成仏とは、釈尊と同じ悟りの境地に到達することを意味します。では釈尊の悟りとは、どのようなものでしょうか。長くなりますが、釈尊の言葉を引用します。

さて、ところで、比丘たちよ、苦の聖諦とはこれである。いわく、生は苦である。老は苦である。病は苦である。死は苦である。嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは苦である。怨憎するものに遭うは苦である。愛するものと別離するは苦である。求めて得ざるは苦である。総じて言えば、この人間の存在するものはすべて苦である。
さて、ところで、比丘たちよ、苦の滅尽の聖諦はこうである。いわく、迷いの生涯を引き起こし、喜びと貪りを伴い、あれへこれへと絡まりつく、渇愛がそれである。すなわち、欲の渇愛・有の渇愛・無の渇愛がそれである。
さて、ところで、比丘たちよ、苦の滅尽の聖諦はこうである。いわく、その渇愛を余すところなく離れ滅して、捨てさり、振り切り、解脱して、執着なきにいたるのである。

増谷文雄(訳)『阿含経典2 』筑摩書房 (p.241)

先述の通り、釈尊は生存とは本質的に苦しみであると説かれました。そして、その苦しみの原因は執着であると説かれました。さらに、執着を超克することで、苦しみをなくすことができると説かれました。だいぶ単純化して言うならば、この執着を超克した状態が悟りであり、その悟りに至ることが成仏であり、悟りに至る道を説いたのが仏教です。

(細かい話をすると、「悟り」や「成仏」といった言葉は多義的です。この記事で「悟り」や「成仏」と呼称しているものは、厳密に言えば「阿羅漢果」と呼ぶのがおそらく妥当でしょう。しかしここは説明を簡略化し、イメージしやすくするため、あえて用語を混同させています)

生存が苦しみであり、苦しみの原因が執着にあるとはどのようなことでしょうか。生きていれば楽しいこともあるはずです。そして、生きていくためには、執着もある程度必要なはずです。例えば、食物を摂取して生命を繋げようとするには、ある種の執着がなければ、食物を得ようという意志も生じないはずです。しかし釈尊は仰います。

比丘たちよ、生は常ならざるもの、人のいとなみによるもの、条件によって生ずるもの、なくすことのできるもの、こわれてしまうもの、貪りを離るべきもの、そしてなくなるものである。

増谷文雄(訳)『阿含経典1 』筑摩書房(p.143)

「条件によって生ずるもの」とありますが、仏教の根本の原理として、「縁起」の概念があります。縁起とは、依存関係によって生じることです。

卑近な例としては、我々の存在は、他のさまざまな事物に依存しています。水や食物を得なければ生存できないですし、その水や食物を得るためにはこの社会で職を得なければなりません。生命として、社会の構成要素として、さまざまなものに依存しなければ我々は我々としてあることができません。得てして、我々は自分自身という確固とした個体が存在すると考えがちです。しかし実際のところは、数え切れない依存関係の上にかろうじて成り立っている、幻のような存在でしかありません。これを無我であると言います。我々は無我であるために、我々自身の存在も、我々を取り巻く人々や社会との関係も、ずっと同じようには存在することはできず、それゆえにそもそも執着するに値するものではないのです。そして、この「無我である」ということを理解した瞬間、あらゆる苦しみから解放されるのです。

だから、彼らは、肉体は我である、我は肉体を有す、我がうちに肉体がある、あるいは、肉体のなかに我があると考える。だがしかし、肉体は移り変わる。肉体が移り変わるから、彼らに歎き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生じるのである。
(中略)
もし比丘が、肉体を徹底的に思考して、その無常性をあるがままに観察するならば、彼は肉体に対して自ずから厭う心を生ずるであろう。そうすると、喜ぶ心がなくなるから、貪りがなくなる。貪りがなくなると、また喜ぶ心がなくなる。かくして、心がよろこび身体がもえることがなくなると、心が自由になる。これを、よく解脱せるものというのである。

増谷文雄(訳)『阿含経典1 』筑摩書房(p.379,398)

このように書くと、「執着するに値しないならば、自殺するのが良いのではないか」という誤解をされるかもしれません。しかし、仏教は輪廻を前提としています。悟りを得ないまま自殺をしても、またどこかで生を得て、同じような苦しみを味わうことになるでしょう。「釈尊は輪廻を説かなかったので輪廻は間違いである」という説を唱える人もいますが、これについてはまた別の機会に説明したいと思います。

さて、この「無我である」という真理は、いくらそれを知識として知っていても、我々は様々な執着を手放すことはできません。何かしらの修行を通じて、単なる知識であることを超えて体感的に理解しなければ、苦からは逃れられません。そこで、次はこのような疑問が生じるはずです。

  • そのような悟りに至るのはとても困難なことではないのか

  • その困難な境地に、南無妙法蓮華経と唱えるだけで本当に到達することができるのか

これらについては、次回の記事で説明しようと思います。

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