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仏教入門としての日蓮聖人の御遺文(1)

最近身の回りで仏教、特に法華経や日蓮聖人の御遺文に関心を持ったという人達が数名いたので、そういった人たちにとってより関心を深めてもらえればと考え、浅学の身ながら私にとって特に印象深い経典や御遺文の一節を紹介して行こうと思いました。

極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず

報恩抄

鎌倉時代に活躍した日蓮聖人の「報恩抄」と呼ばれる論書の一節です。「極楽」というのは、一般的に想起される極楽浄土、すなわち死後に赴く天国のような世界と考えて差し支えありません。対して「穢土」というのは、我々が現在暮らす苦しみに満ちたこの現実世界のことです。天国のような世界で百年修行する成果は、この苦しみの満ちた現世で一日修行する成果には及ばない、という意味になります。

日蓮聖人が活動された鎌倉時代は、死後に極楽浄土へ行くことを願う浄土信仰が盛んでした。浄土信仰においては、我々が生きているこの世界は穢れており、そのため瞑想などの仏道修行を行う場として適さないと考えます。現世で修行する代わりに「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えて死後に阿弥陀如来という仏がいる極楽浄土に生まれ変わり、そこで修行することで自らも仏になろうという信仰です。

戦乱や災害などが頻発し、多くの人々がなすすべもなく死んでいく、そんな鎌倉時代の混乱した世相の中では「この世界は穢れている」という考え方は大変なリアリティをもって受け入れられたのでしょう。そのため浄土信仰は圧倒的な支持を集めました。一方、仏教はもともとは開祖であるお釈迦様以来、基本的には死後ではなく、人間としてこの世界に生まれた一生の間に可能な限り仏教の修行をするべきという考え方で、日蓮聖人はそうしたお釈迦様以来の伝統的な考え方の忠実な継承者でした。それゆえ、当時支配的であった浄土信仰に抗して、このようなことを書かれたのでしょう。

当知是処。即是道場(まさに知るべし このところはこれすなわち道場なり)

「法華経」正木晃訳

「法華経」の「如来神力品」と呼ばれる章の一節です。法華経を信じる修行者にとっては、街中の喧騒であろうと荒野であろうと、今いるところが修行の場になるという意味です。つまり、穢土と呼ばれるこの世界こそが格好の修行の場なのです。「如来神力品」のこの一節を突き詰めれば、そこがたとえ銃弾の飛び交う戦場であろうと、修行の場としての価値が見出されるでしょう。日蓮聖人は法華経を信仰しており、その布教に生涯をかけられました。冒頭で紹介した一節には、こうした法華経の精神が生きています。

法華経はお釈迦様が亡くなられた後、およそ五百年ほど経って成立したお経です。そういった意味では、歴史上のお釈迦様が直接書き残した言葉ではないのですが、お釈迦様が御在世の頃の言葉に残した言葉に近いとされる「法句経」というお経にも似たような意味合いの言葉が残されています。

物事が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、物事が興りまた消え失せることわりを見て一日生きることのほうが優れている。

「ブッダの 真理のことば 感興のことば」中村元訳

浄土教の代表的な僧である道綽の「安楽集」によれば極楽世界では無限とも言える長い寿命を得ることができるそうですが、そのような安穏とした世界よりも、寿命も短くさまざまな苦しみがあるこの現実世界で生きた方が、はるかに修行になる。そのような意味で、お釈迦様のこの言葉と日蓮聖人の言葉は、時代は隔てられてはいますが、精神の連続性を感じさせます。

現代もまた、鎌倉時代ほどではないかもしれませんが、いたるところで災害や戦争が起こる、不安に満ちた時代です。このような時代にあって、お釈迦様や法華経、そして日蓮聖人のこうした言葉は、困難に立ち向かう勇気を我々に与えてくれます。


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