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鰹節

鰹の歴史を辿ると、如何に人々が鰹の美味しさに惹かれたかが
わかって面白かった。
歴史の詳細は、このHPに任せるとして、
今回は『魅せられる』について語ってみたい。

人それぞれ噺家の芸に魅せられる点がいくつかあると思う。
無いもの、をあるように見せるのが落語の凄みのひとつで、
「食べる」仕草は観る側の想像力を刺激してくれて、楽しい。
視覚で楽しむ芸当だろう。

食べ物の質感が伝わらないといけない。
さらに温度や形、硬度なども。
『時うどん』の仕草なら、
汁物で長い食べ物を熱がりながらすする。
咀嚼する時も柔らかいものを噛んでいるのだなと見る者がわかる芝居で…。
口、手、指、肩や身体の動きで表現する。
あと大切なのは…見ている側が食べたくなるのも重要かと思う。

鰹節で言えば。
削る前の硬さを表現するのも難しいが、
大工さんがカンナがけをするのと、鰹節を削るのとでは
動作は同じだけれど、噺家は違いを表現出来るのか?
と余計なことを考えてしまう。
一流の画家は、塩と砂糖を描き分けられる、らしい。
確かに、木材と鰹では大きさ以外に質感も違う訳だが……。
演じ分けのコツがあるなら教わりたいくらいだ。
それこそ魅せられることだろう。

噺家は、師匠に魅せられた人だと思う。
憧れて、なりたくて、もちろん師匠本人にはなれないけれど、
あんな芸をしたいなと思って入門するんだと思う。

話は少し逸れるが、鰹に魅せられて鰹節専門店を開いた
店主・松永さんがいる(有名よね)。

鰹との会話、師匠との会話

鰹をその場で削ってくれるためLIVE感がある。
削る最中は彼女のおしゃべりも楽しめる。
お店を訪れた時、その日彼女は実は元気がなかった。
元気だけど、心がしょんぼりという感じ。

彼女自ら話してくれたのだが、どうやら
「最近鰹と、心を通じ合わせられていない気がする」のが理由らしい。

そんなこと思いながら日々削ってるのか…!と
驚愕したと同時に、失礼ながら少し羨ましくなった。
楽器の演奏家さんは楽器と、農家さんは育ててる作物と、
かよってないな〜と思ったりするのだろうか。

閑話休題。

師匠と弟子、というのは人間同士だし、
生きている間は見栄とか、恥じらいとか、意地とか
いった類の後々見ればアホらしい、どうでもいいしょうもない感情が
入り混じって素直になれないとか、腹を割れないとかがあるかもしれない。
しかし、師匠が旅立ったとしよう。弟子の噺家人生は続く。
その時、習った噺は繰り返し稽古あるのみと思うが、
教われなかった噺は、残された資料や映像や音声、芸談を振り返る。そして
自分で噺を習得する時、「師匠ならどうするだろう」がよぎるはずだ。
心の中で、あの人ならどうか。の問いを与えてくれる存在がいることが、
その人を伸ばす。

どこかで見てくれているし、見られている。
だからいい加減なことは出来ないと、心に誓える。
その気持ちが、仕事を、芸を、さらに磨き上げてくれる。
そんな人に出逢えないことを嘆くのは、
『魅せられる』ための心が衰えているのかもしれない。

ものでも良い、ひとでも良い。
今日からでも今からでも、見つけられたらいいなと思う。
『魅せられた』人の、心は強い。


創作の製作過程を覗きみて、楽しんでいただけたら。