PAさんゲインを少し話
タイトルから気が付かれたかもしれない。
何回もライブハウスでアウェー喰らったぞ。
そういう事なので、今回は己と音楽の話。
音楽歴と人生がほぼ比例してる
もうこいつは結論から書いた方がいい。
3歳から人生狂わせました。
初めてが『家にピアノ置けません』から開始。
その時点でポシャってるが。
弦楽器の方が維持コスパ高いんだけどな!
そんなこんなでヴァイオリンと声楽開幕。
エリート音感オバケは当時音叉しか無かったぜ。
故にピッチが440なのか442なのかぐらいは判別がしれっと出来る。
ここまで来るとキモい能力に化けるのだが。
バンドしてても歪みの種類をピタで当てて来る。
は?カラヤンピッチ?あれは別です別の音域。
簡単に解説をしたいと思う。
人間には五感がある。
しかし個別性なる大雑把に個性が存在する。
いるじゃん、めっちゃ看板空目しまくるのに匂いだけでメシ何食ったか当てて来るタイプとか。
動体視力めちゃくちゃいいのにちょっと鈍臭い系のかわいいタイプとか。
典型的に筆者は『もうこの曲しらねぇ、ルート根幹音外さなかったら外さんわい!』と、ミリしらの歌だろうがあんまりハズレの音を出さないタイプである、カラオケなかなか嫌いなんだよな。
個別性としての聴覚特殊型。
ボーカルがジョン・コルトレーンしてたら話は別なんですけどね、ほぼテンションコードのバケモンだからあの人、サクソフォンだけど。
もちろんオバケ存在も練習は必要である。
当たり前だろう。
多分毎日ガキの集中限界点突破した60分は練習してました。
小学生、つまり6歳で45分なんとか出来るから一限ユニットが45分。
なんとこれ、結構児童はそもそもゾーン持ちタイプじゃないとハナから無理ゲー。
最初からゾーンなんか作れません、無理。
じゃあどうすればいいのよ、というお話になる。
10分やる→5分ダレる
このルーティンでいいのだ。
徐々にそのやる時間を伸ばしてダレダレ時間を短縮すれば良い。
しかし臙脂色教本だけはガキに向いてません。
最初、ヴァイオリンは構えと弓を持つところからスタート。
いきなり弾いたらもれなく事故だ事故。
そして筆者は少し古い構え方なのだ。
つまり左頬を顎乗にフル癒着させ、左目でポジションを確認しながらボウを両目で把握させる奏法。
こいつの利点は圧倒的に音が爆音化、そしてフォームの把握を左右の目で各々担えるのでソリスト向きだろう。
なんとこれだけしか利点がない。
なんたる悲惨、なんたるナマクラ。
今のスタンダードだと顎部の中心にガッツリ載せるのだとか、びっくりしたし弾いてて違和感爆発的に起こした。
確かに効率は良い、ボウイングポジショニングの同時把握可能の体勢だし。
ただガッツリ左に重心置いてないから、音が相対して殺されるやもしれない。
理屈なら簡単、目一杯ボウつまり右上腕前腕が振り切り可能なのがひと昔の構えの利点。
ただし諸刃の剣がほぼこの世の摂理。
はっきりと音を理解出来ていないと全てが事故化する、当たり前だ、ズレズレ音堂々と弾いても。
なので最初は指板にギターよろしくテープでフレット作ってしまう。
正しい音を叩き込むのだ。
正しい音を叩き込めたら突貫フレットを減らす。
今こそ思えば、そこまでよくもまぁ投げ出さなかったなとは思える。
必ず起点音、Aから開始するのはどうもオケの木管金管がAの本日コンディション確認問題、らしいが。
いわくブレたくるらしい、大変だよな楽器って。
ぶっちゃけこちとら開放弦でA鳴らせるからありがてぇです、一番酷使する弦だよ。
音叉だってA鳴るんだもん、最悪耳孔に音叉を突っ込んで脳に共鳴させて調弦させてた。
ここまで書いたが薄々わかる層も居ると思う。
かなりのウルトラスパルタ型でした。8ページフル暗譜上等、譜めくりなんかしてるヒマなんぞねーわと16ページ叩き込んで来てるんだこちらは。
あた教3巻を多分小学3年来る前に真ん中ちょい過ぎぐらいまで完了させてた。
なおここまで来てるとほぼ音大行き確変演出。
その確変へし折って、ド理系学部で別の意味で狂ってたけどな結局!
通称あた教、白教本とも呼ばれる本。
まさにどこぞの悪魔全書みたいな教本があるんですけれども。
ほぼあの掲載曲3巻4巻が弾けたら『ヴァイオリンちょっと弾けます』ぐらいは言えるスキルが全部着く。
あた教勢は言っても良いと思う、ちょっと弾けますぐらいは。
それぐらい恐ろしく質の高い教本の一角です。
もちろん並行させて、カイザーだのクロイツェルとか、小野先生本とかもしておりましたが勿論。
多分あれで効率厨みたいなところ悪化してる。
ここのボウイング上手く出来ねー、たしかクロイツェル何番でそういう奴が、これだ、みたいな。
マジでガキかコレ?
多分根本的に練習ってどうやるのか、基礎ってどれだけ大切なのかを理解してるタイプ。
骨身に染みるレベルに音で出されるから。
今日の音めっちゃザコ!とかすぐわかります。
あと典型的『コイツ……エア・バリエ全般が病的に上手いな?』タイプ。
そもそもダンクラエアバリエとかめちゃくちゃ練習したし、全く納得出来なかったらものすごい嫌がってた記憶ある。
そもそものエアバリエってあれ、ヴァイオリニスト目指すなら必ず練習しなきゃスキル付かないぐらいには莫大な作品。
あたま下げろ、あの曲だけはあたま下げろよ。
テクニカルに問題出たらアレ浚えば大抵救う。
あた教3巻のフィオッコ作トリル炸裂曲いわくアレグロをほぼフルスピードでガス欠させずにフルで走る、ウルトラバカプレイヤー。
もちろんフル尺で一回フルパワーで弾いて、ちょこちょこ改善して、最後またフル尺フルパワー。
あれはかなり音をパンっとタイトで切るのか、敢えてテヌートさせてくるのかで、全てのプレイヤーとしての癖と性質を出してくる。
切るとこ切って、ボウイング大胆に根っこからダウンアップ使えばとりあえずサマにはなるな。
で、あのトリルしかないゾーンは絶対運指とボウイングに気を配らないと意味がなさすぎる。
妥協とかめちゃくちゃ苦手だし音楽には絶許。
んなもん単に浚って弾いただけじゃねーか。
楽しくすらねーから、それ。
めちゃくちゃガチって弾いて、最後の一音を鳴らしながら余韻残したその瞬間の音を噛み締めて楽しむのがプレイヤーの真髄だろうに。
今でもそれは変わりませんでしたね、そうだし。
それが別に何の楽器だろうが、変わらないよ。
音楽を楽しめないプレイヤーこそ破滅
妥協を嫌い、自分の音に常に疑いを持ちながら、それでもゴールの無き道を進む。
模範はあれどそれが正解ですらない。
そもそも論で才能の世界、そういう才能は無かったと認識していた……どころか、何度も挫折した度に何らかのアプローチで再起させられた。
おそらくは、推測するに、側からすればかなりあった、のだろう。
何回も言われてついに嫌になった言葉がある。
未だにその言葉だけは死ぬ程大嫌いなのだ。
『奇才』『天才』
愛機はジャーマニーバイオリン、しかし大得手は俗に言う『ジプシーヴァイオリン』という自由そのままの泣きメロが唸る情熱と哀愁と激情。
愛機はそのまま自分の耳が一番コイツだと選んだから、たまたまドイツ産まれのヴァイオリンなだけ。
ジプシー音楽が得手なのも、自分が何処か放浪してしまうタイプだし、一つの場所に留まらずふらふらと宛ても無く存在生活していたい人間だから、ロマと類似した自由の価値観の大切さやその本来の苛烈性を何処か理解していただけ。
その愛機と積み重ねる努力は努力と然程思えず、それは己の生き様、己の一つの開放のみ。
日がな淡々と音で昇華させただけだろう。
その努力の過程への否定言葉達を何度も浴びて、ひたすらに積み重ねた今までを返してくれ、と、悔し涙を何度も黙って隠れて流した。
天才と呼ばれても全く嬉しくすらなかった。
マメを潰してまで、腕がクタクタになるまでずっとずっと弾いた時間の全否定になりかねない。
天才、奇才と勝手に呼ばれて己を叩き落とされながら被害者面をされた事すら、うんざりするぐらいは、ある。
あの時程、経験や時間の比例を何故わからないのか、と、壮絶な気持ちになった事もない。
たった十代の人間が、そこまで残酷なルサンチマンの様な感情を叩きつけられて来たのだ。
『このままでは、自分が折れる』
たしか中学生三年の頃、県内高校の音楽科に進まないか?と持ちかけられた時だった。
はっきりこう述べたのを覚えている。
『このままだと音楽に呪われる、音に奪り殺されてしまう、そんなプレイヤーは大嫌いだ、なりたくもないしこんなの呪いだ、何が音楽だ、ちっとも楽しくもない、勝手な価値観で勝手に決めつけられて生きたくなんかない』
忌憚無き、偽り無き、音楽を愛する故の決別。
十代独特の価値観と、裏切れない経験と、憎みたくない苦しみを捻り出した言葉なのだろう。
音楽を憎んでも自分には何ひとつも残らない、だから今は去る必要がある。
そういう苛烈な選択も実は経てきた訳だ。
最後にずっとずっと、長年付き合っていただいた恩師と仕上げた曲はモンティのチャルダーシュ。
プレイヤーとしての己の個人、素の性格としての個人を熟知した、忘れられることの出来ない先生だった。
最後にいただいたひどく嬉しい言葉がある。
『プロじゃない子がこんなにすごい、強烈なチャルダーシュなんか弾けないねんよ、苛烈で豪胆なのに寂しくて繊細な音やね、ずっと堪えて努力してたもんね、えらいよ』
それだけを持って、自身も泣きながらヴァイオリニストの道を自ら断ち切った。
自分を切り捨てる経験は、あまり好きではないが大切な価値観を与えてくれた。
かつて天才や奇才と忌み嫌われた側が述べる。
むしろここだけ読んでほしいかも知れない。
天才と呼ばれてしまう人間は、妥協を嫌う。
努力を当たり前の過程と、捉える。
相応しいと思えないとすぐに、切り捨てる。
それぐらい苛烈で繊細に振る舞う。
故に奇跡的な事をしでかすが、それは膨大な時間と蓄積された経験が産んだ、結局は結果論だ。
天才と片付けるのは酷く簡単。
自らの理解を超えた異質な理解不能存在人間を、そうやって呼べばいいだけなのだ。
しかしながらその存在は発言の排他性に実は気がついていて、少し悲しい顔をする。
天才や奇才なんか、勝手に出来る筈がない。
だから、あまり軽く言わないで欲しい。
上手いね、すごいね、努力したね。
たったそれだけでよかった。
重ねた努力や時間を排他しないで欲しかった。
ここまで悲しい思い、異質としての自分を識るが故の苦しみを嫌と言うほど解る側として。
単純に努力する姿が綺麗に見えるだけ。
積み重ねた経験が身を助ける事はあるのだし、その経験があるからこそ、ゾーンという意識没入状態に自身を落とし込める。
だから、そのきっかけとして存在する音楽に無礼だけは、したくない。
たったそれだけ。
自己としてのプレイヤーという一面だけなら。
かなりの気性難だろう。
それでも今は、ヒマさえあれば何かしらの弦楽器は触る。
根本的に自分をニュートラルにさせるのが音だ。
音楽を憎まない選択として、あの頃の壮絶な勇気こそが結果として良かっただけだろう。
素直に認めてやる事もプレイヤー所以
高校に進学してからは敢えて、徹底的に、クラシックを避けていた。
二度と見たくすら無い、深い傷をまた化膿させるからだ。
高校の音楽でたまたまギターを弾いてくれと頼まれた時、正直『また弦楽器かよ』とちょっとだけウンザリした。
ただ曲ならビートルズだし、まぁいいわな、と、コードを覚えて感覚を掴んでなんとなく、弾いてみた。
「あっすごい、上手い、良い感じやん!」
その時すこしだけ面食らってしまった。
そのシンプルな賞賛だけを欲してた自分へ。
ここまで音楽に散々ウンザリしておきながら。
実は真っ直ぐに音楽に向き合っているダブルバインドも、面倒だろうに。
そういうのもアリだな、と、少しぐしゃぐしゃになった思い出を大切にしてやりたいと思った。
授業では『アマデウス』という映画を見させられた。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとアントーニョ・サリエリに纏わる話の映画だ。
あぁ、モーツァルトとサリエリか、知ってる、あんま見たくないけど。
そうはすかいに構えて見た。
ひとりのかつてのプレイヤーとしての感想なら。
モーツァルトの狂気的な音への執着や妄執から来たす苦しみ、サリエリの決して凡庸ではないにしろ世間に潰される無責任への怒りは、痛い程解るだけだ。
サリエリだってバロック楽曲に精通した名プレイヤー、バロックとは緻密さが要求される。
それを一人の才能に潰された、その存在がアマデウスというひとりのプレイヤー。
アマデウスとは少しふざけている、故に音にも大変にふざけてしまう、だからそれが才能に化けるだけ。
少し、何だか、お互いの為にならない終わり方をしてしまったよな、何だかなぁ。
プレイヤーとしての視点ならそういう終わり。
あいつら、本当に音楽に最期まで呪われてら。
奇しくもモーツァルト絶作はレクイエム。
依頼なのに、どこか自分を赦して欲しかったとも取れる様な皮肉さの現実。
同時期に生きた非なる才能達は、あまり幸せでも無かったのかもしれない。
それは歴史でしかわからない。
ケッヘルという記号を作られる迄に没頭した彼もまた、一人の苦悩する人間だったのだろうに。
自身もまたサリエリとモーツァルトと全く違うのに、プレイヤーとしての手痛い通過点をそれなりに通って来たのだ、と、何だかあまり良い気になれなかった。
別に欲しかったモノも無かった。
敢えて言うならテクニックとか表現力とか、感情を乗せる様なプレイヤーでありたかった。
そこに少しだけ、努力だけを労って欲しかった。
本当に欲しかった事は、ここまで欲深い。
今でこそ、ギターとベースと少しだけのヴァイオリンを気儘に鳴らすだけの存在。
音楽が好きだから、鳴らしたい気持ちを気ままに乗せてしまうだけのお気軽に、漸くなれた。
ただしそれがホリゾントに照らされた瞬間、その仮面は剥がれ落ちる。
激情と慟哭と無情をがなり散らかす、衝動的なプレイヤーとして振る舞う。
そのスタイルこそが己の音への本質だろうから、そうするだけ。
そういう激しい一面を持つから、淡々とコツコツと努力をしてしまう。
音楽に正直に向き合うと、この持論しか出ない。
ここまで真面目な文章も求められるないだろうけれど。
たまには、という事で。
ありがとうございました。
それでは!
今日はこれにて任務完了〜!
寿司でも食い行っかぁ〜!!!!
音楽ぐらい、気楽にやろーぜ!