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最後に、もう一度だけ

先週土曜日のこと。
諸般の事情により、イタリアに住む友人アンドレアから数カ月間、英語を教えてもらうことになった。その初回、Zoomを繋いだラップトップの画面右上で、彼は言った。
「これ、なんて読む?」
共有された画面中央には、”one” の文字。
「オーネ」僕はそう答えた。
「意味は?」と、アンドレアが聞く。
「わかんねぇ」
「じゃぁ次」やつはそう言ってキーボードを叩く。
画面に “two” と表示された。
「なんて読む?」
「トゥーオ」
「意味は?」
「わかんねぇ」
僕が答えるとアンドレアは微妙な表情を見せ、一瞬変な間が空く。その後、彼は黙ったまま、
“three, four, five” と画面に入力し、
「これ、順番に読んでみて」と言った。
「トれェ、フォウる、フィーヴェ」
「...思ったより重症だな。ねぇ君、1から10まで英語で数えられる?」
「...お前な、いくら僕が英語が話せないっていっても、それくらいできるに決まってるだろ」
「じゃぁ数えてみて」
Va beneオーケー...ワン、ツー、スリ―、フォー、ファイブ、セックス、セッテ、オット、ノーヴェ、ディエーチ!」
「なんか6あたりで切り替えスイッチが作動したみたいだけど」


そう。僕は致命的に英語ができない...というのは冗談で、実はこれはある目的を達成するための作戦だ。いくら僕だって10くらいまでなら当然、英語でも数えられる。いや、10どころか、多分20まではいける。
イレブン、トゥエルブ、サーティーン、フォーティーン、フィフティーン、セックスティーン、セッティーン、オッティーン、ノヴェティーン、ヴェンティ...たしかこんな感じだっただろ。

とにかく、「知らないふり」と「知ったかぶり」は、使いようによっては何においても、とても有用なのだ。

僕はイタリアで電車やバスに乗らなくなって久しいが、少なくとも10年前はこれらに乗車する際、事前に切符を打刻機へ通す必要があった。もし日付と時間の入っていない切符が検札時に見つかれば、最悪罰金を科せられることになる。
ヴェネツィアにいたころ、僕はトリエステ(フリウリ‐ヴェネツィア・ジュリア州)...いや、ベッルーノ(ヴェネト州)だったかな...へ、日帰り旅行に行き、打刻を忘れて帰りの電車に乗り込んだ。出発時刻数分前に打刻をしていないことに気付いたが、車両を降り、地下道を通って打刻機のある場所まで戻っていたら、その間に電車はホームを出てしまう。そして次にヴェネツィアへ向かう電車が来るのは一時間以上後だ。とはいえ罰金を取られるのは嫌だから打刻しないわけにもいかない。そこで僕は線路を横断して打刻機の置かれている場所へ向かうことにした。
線路を渡り切り、打刻を済ませ、車内に戻ろうと再び線路を横断していると、ホームからこちらへ走ってきた駅員二人に捕まり、すげぇ怒られた。一頻ひとしきり捲し立てられた後、僕は、
「アイム ノット イタリー」と言った。
素晴らしい言い訳だったと、今でも思う。イタリア語を解さないと匂わせつつ、さらに、英語も分からないとさりげなく伝える名文だ。これを聞けば、相手は、
「ぅわ、めんどくせぇやつ捕まえちゃったな」と、十中八九諦めてくれる。
案の定この時も、
「次やったら罰金だからな」と、無罪放免された。

このケースでは前述の策が最良だったと自負しているが、外国...少なくともイタリアで暮らす上では、知ったかぶりが有効な場合も多い。
相手の言っていることが全く分からなくても、そいつの表情をまね、その顔色に相応した感情を込めて、
Sì…はい... ah, sì? あぁ、そう? Ho capito…そうですか...” とかなんとか言ってりゃ大抵なんとかなる。経験上。
...例の感染症も落ち着いてきたことだし、これからイタリアへ旅行に行かれる、現地の言葉を勉強したことがない方のために、ちょっと下にメモしとこ。ほんと、この3語があればなんとでもなるから。

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スィ「はい」「そう」
: はい/いいえの「はい」。ちなみに「いいえ」は “no” だ。
ahアー「あぁ」「へぇ」
: 驚き、納得、その他、感情の込め方によって色々なことを表現できる、とても便利な間投詞
Ho capitoカピート「(私は)わかりました」
: “Capiscoカピスコ”「(私は)わかります」と言ってもOK

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それはさておき。
今日5月31日(火)、バイト帰りに一冊の本を買った。
【The Little Prince (ANTOINE DE SAINT-EXUPERY)】
「星の王子さま」の英語版だ。
イタリア語を勉強し始めた頃、これのイタリア語バージョンを、まだ子供だった僕にアンドレアが読み聞かせてくれたんだよね。寝る前に。実は、ずっと前から...最後にもう一度だけ、あいつに読んでもらえたらな、って思ってて...
...わかってる。22歳の男が34歳の男に、「寝る前に本読んで!」とか言うなんて、”気持ち悪い” 通り越しておぞましいよな...でも、あと5ヵ月経ったら23歳の男が35歳の男に「寝る前に本読んで」って言うことになっちゃうし...それよりはマシじゃね?
それに、ほら、これ英語の勉強の一環だし!外国語学習では本を読むことはすごく大事だろ。でも、”one, two, three…” も読めない僕が文章なんか読めるはずもないし、たった一年間とはいえイギリスに住んでたやつの発音を聞くのは、学習効果上悪くないと思うんだよ。
あいつと一緒に勉強してたら、いつまでも英語が全然読めない振りをするのは難しいし、それに、もし本当にそれなりに読めるようになって、口実にする理由がなくなっちゃったら...こんなことを頼める自信がない...
...提案するなら、今しかないだろ。ちょっとくらいおぞましくたって構うもんか。どうせ誰も見てないんだから!
それに...アンドレアなら、きっと受け入れてくれる。「いい歳して気持ち悪い」とか、「頭おかしいんじゃねぇのか」とか言わずに、昔みたいに優しい声でこれを読んでくれる。最後に、もう一度だけ。


午後8時。アンドレアとZoomを繋ぐ。
「今日は最終出勤日だったね。二カ月間、お疲れ様」
僕は彼と目を合わせず、労いの言葉も無視して、帰宅後、飯も食わずに何百回も頭の中で復唱した台詞、
「今日、帰りに本屋で洋書を一冊買ったんだよ。明日から英語の勉強が終わった後に、この本を読んで欲しいんだけど...」を言おうとしたが、クリーム色の本をラップトップのカメラに近づけ、口から出てきたのは、
「これ、買ってきたから読め」だった。
...なんで僕、いつもこうなんだろ?
こんな態度で頼みごとをしたせいなのか、そもそもこんな頼みごとをしたせいなのかは分からないが、とにかく自己嫌悪でちょっと泣きそうになっていると、アンドレアが、
「えー...無理」と呟き、胸をえぐられるような思いがした。
...そうだよな。やっぱり、気持ち悪いって思うよな。
彼と視線を合わせることができないままキーボードを見つめて黙っていると、やつは続ける。
「『星の王子さま』は君には難しすぎるよ。俺も今日、絵本を一冊買ってきたから、こっちを読んであげる」
「...絵本?」
思わず画面に目をやると、彼は微笑み、正方形の青い本を自身の顔の前に掲げた。
【Peppa Loves Doctors and Nurses】
タイトルの下には、あまりにも有名なブタとヒツジが描かれている。
「ペッパピッグ...?」
「『ペッパはお医者さんと看護師さんが大好き』。だからローリスも主治医の先生が怖くないよね。来週病院へ行くいい子はだぁれだ?」
「...アンドレア」
「ん?」
Fai schifoお前、気持ち悪い! Ma sei matto頭おかしいんじゃねぇのか?!」