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否定と肯定

はじめての裏Loohcs Timesを更新するのは、やはり私しかいないでしょということで、きっての善人であるこの谷口が初投稿に挑戦します。

唐突ですが、みなさん『否定と肯定』という映画をご存知でしょうか。ホロコースト否定論者である小説家デイヴィッド・アーヴィングが、ユダヤ人の歴史学者デボラ・リップシュタットを名誉毀損で訴えたことによって始まった実際にあった裁判を描く映画です。
アーヴィングがリップシュタットを名誉毀損で訴えたのは、リップシュタットが著作の中でアーヴィングの活動のことを痛烈に批判したからです。争点はリップシュタットのアーヴィングに関する著述が相当程度に確からしいかということにありました。単純な争点ですが、そこにはナチスによるユダヤ人の虐殺についての歴史的真実の問題が含まれています。
リップシュタットが仮に裁判で負けるようなことになれば、歴史修正主義にい大きな力を与えてしまいかねないのです。
この裁判の結果がどうなったかというと、、、

自己肯定感とは何か?

とまあ、この導入は今回の記事に半分関係があって、半分関係ないのですけどね。タイトルが結構いいなと思っただけなんです(原題は”Denial”)。
最近は、「自己肯定感」をはじめとして「肯定すること」の必要性がいたるところで主張されています。ではそもそも「自己肯定感」とは何か。
「自己肯定感」は、日本でよく使われる概念で、欧米(特にその発祥となったアメリカ)では「自尊心-Self Esteem」や「自己効力感-Self Efficacy」、「自己信頼-Slef Reliance」という用語が用いられます。「自分は有用な存在である」「自分には何かを変えられる」「自分自身のことを尊敬する」そんな感じの意味合いがあるわけです。

この言葉の多くはアメリカで生み出されたのですが、国を新たに作ったアメリカらしい/プロテスタントらしい発想でもあります。自己信頼を主張したエマーソンなんかはその代表的な例です。
真理は自分の心の中にあるうちなる光なのだ、だからこそ自分の内なる光を信じることが重要なのだ。ってな具合です。自分の内なる光を信じるならば、周りの評価は気にならない。全くもってその通り。
さらに、この内なる光は神によって与えられた(あるいは神そのもの)なのであるから、その光に気づけば誰ものが普遍的な真理を共有できる。だからこそ、自分を信じることは、単なるわがままに止まらないんだ。こういう論理立てなわけです。西洋の思想圏にはこういう発想は割と根が深いというか、よくある話です。
そしてこれは、単純に「ありのままの自分を受け入れる」とは異なるというか。むしろ、「ありのままの自分」というものが理想化されているということもあるわけです。だからこそ、今の自分を否定する必要がある。神に似せて作ってもらったのに、人間の文化が人間存在を堕落させる。無駄なものを削いで行った先に本当の幸福がある。
無駄なものを纏い過ぎている自分を否定する必要がある。わからなくもないじゃないですか。魂のこんまりメソッドです。

その自己肯定いる?

さて、それに照らして本邦の「自己肯定感」の受容をながめてみると若干のねじれがあるように思います(本邦だけのことではないのだと思いますが)。「ありのままの自分」=「今の自分」のような。第一、「ありのままの自分」って何だよって思いますが。人間変わっていくものだし(人間の本質なんていう実在論それ自体に抵抗してみたい気持ちもありますが)。
「君はそのまんまでええんやで」という優しい言葉の裏に、変わることへの諦めとか変わらないでほしいという欲望とかそういうものを感じるのは性格が真っ直ぐすぎるだけなのかも知れませんが。
まあとにかく色々あるけど認め合おう。というのは、社会が複雑になり、「常識」のようなものが機能しづらくなったことの一つの表れなのかもしれないですし、思想・信条の自由を重んじる近代社会の原理原則なのかもしれません。色々あるけど認め合うのはとても大事なことです。相手の存在を丸ごと許容することはこれはもう絶対に認め合わなければならない。

しかし、それは「存在」に対してです。
特定の人間の「態度」や「行動」にまで適用される原則ではありません。
例えば、あいつのことはめちゃくちゃ嫌いだし、言っていることも全然納得できないし、あの言動をしているようじゃだめだと思うことは正直あるものです。
しかし、だからと言ってそういう存在を否定したり、排除したりはできない。当たり前のことです。
しかし、どうやらそうもいかないみたいだ。「肯定すること」が水戸黄門の最大の武器である葵の御紋のように機能することがある。らしい。
確かに、教育の世界ではそういうことがよく言われる。まずは、「子どもたちを肯定することです」。自己肯定に関する概念が。教育学にも影響の深い心理学由来であることが多いことからも、教育界への影響が一定以上あるのは納得できる。
しかし、教育には「ゆるい肯定」よりも「否定」も必要なのではないか。なぜなら、指導するあるいは学ぶということは、「変わる」ことを要請するからです。もちろん、その「否定」は存在の肯定を前提するべきではあります。「存在」を否定するのではなく、「思考」や「行動」を否定する。
こういうことは、「教育」の中に織り込まれてしまっています。
だからこそ、今改めて何を肯定すべきで、何を否定すべきかの議論が必要なのではないか。「そのままでいい」というのは、いったい何の「そのまま」なのか。
そして、この議論をする上では必ず価値の問題が出てきます。何が良くて、何が悪いのかという判断軸の問題です。この議論は本来避けては通れないものですが、この議論がうやむやだからこそ、何を教えるべきかが曖昧になっているのではないか。だからこそ、とりあえず肯定する以上の手数が実はないのではないか。判断する軸がなければ、とりあえず肯定してあげる以上の策がないということです。
ホローコストのように、私たちには否定すべきものがある。否定すべきものを否定する。そのことから、われわれが守るべき価値も、新たに作るべき価値も見えてくるのではないでしょうか。それはむしろ、とりあえず肯定する以上に大変な作業ですが、問われているのはそのことです。
以上、居酒屋談義でした。もちろん、存在自体が危機に瀕している人間存在には、その存在を肯定も否定もされない空間が重要なことは改めて念押ししておきます。

[今回の記事担当]谷口 祐人
慶應義塾大学総合政策学部総代、および同大学院政策メディア研究科修士課程修了。現在、同大学院博士課程にも在籍中。Loohcs高等学院のコンセプトの設定やカリキュラム設計を経て、取締役に就任。取締役に就任後は、主に全社のビジョン・ミッションの言語化やLoohcsが「目指すべき教育」の形の言語化に携わる。


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