バーニー・レドン×クリス・ヒルマン:最新の対談動画で知ったいくつかのエピソード
先日、note仲間の音楽の杜さんが、フライング・ブリトー・ブラザーズのサードアルバムとディラード&クラークのファーストアルバムを相次いで紹介されていた。すると、まるでそれにタイミングを合わせたかのように、ある興味深い対談動画がカントリーミュージック名誉殿堂博物館のサイトにアップされた。フライング・ブリトー・ブラザーズでバンドメイトだったクリス・ヒルマンとバーニー・レドンの最近の対談だ。ご存じのように、クリス・ヒルマンはバーズのオリジナルメンバー、そして、バーニー・レドンはイーグルスのオリジナルメンバーだが、バーニーはブリトーズの前にはディラード&クラークに在籍していた。このようにLAのフォークロック〜カントリーロック萌芽期に共に重要な役割を果たしたふたりだが、彼らが互いに10代の頃からの旧知の中であることは、案外知られていない事実かもしれない。その辺りの話も含め、今回の記事では、この対談で披露されていた興味深いエピソードをいくつか紹介してみよう。
カントリーミュージック名誉殿堂博物館(Country Music Hall of Fame and Museum)は、その名の通り、カントリー音楽の歴史を今に伝える博物館だ。テネシー州ナッシュビルにあるこの博物館については以前の記事でも触れたことがあるが、現在、ここでは、60年代後半から70年代初頭にかけてのロサンゼルスのカントリーロックを取り上げた企画展「Western Edge: The Roots and Reverberations of Los Angeles Country-Rock」が開催されている(2025年5月まで)。同館では日頃からさまざまなショーやイベントが行われているが、今回ウェブサイトにアップされたこの対談は、開催中の企画展に沿ったイベントとして2023年10月14日に行われたものだ。
今回の対談で語られたことの多くは、2020年に出版されたクリス・ヒルマンの自伝『Time Between — My Life As A Byrd, Burrito Brother, And Beyond』でも触れられていた。この自伝については以前に連載形式で取り上げたので(下記)、今回は、どちらかと言えばバーニー・レドン主体で、私が初めてディテールを知ったエピソードや、二人の印象的な言葉などを紹介していこう。
フェスティバル・エクスプレス・ツアー
対談のステージは、司会者(博物館の出版物担当ディレクター)による二人の紹介の後、ヒルマンとレドンが共演していた時代の映像を流すところから始まる。1970年の夏に行われた「フェスティバル・エクスプレス」ツアーにフライング・ブリトー・ブラザーズが参加・出演したときの映像だ。曲はグラム・パーソンズ作の「Lazy Days」だが、グラムはこの年の初めに素行の悪さから解雇されており、バーニー・レドンがリードヴォーカルをとっている(この時点ではリック・ロバーツはまだ加入していない)
このツアーは、チャーター列車でカナダの東海岸から西海岸まで移動しながら、同国の複数都市を巡るという企画。その様子はフィルムクルーによって撮影されていたが、ツアーを企画した会社が倒産するなどしたため、フィルムは行方不明になっていた。それが、2000年代になって見つかり、リストアされて2003年に同名の映画になった。今回会場で流された映像もその映画からのものだ。ツアーに参加したのは、ブリトーズのほか、ジャニス・ジョプリン、グレイトフルデッド、ザ・バンド、バディ・ガイ、イアン&シルヴィア、デラニー&ボニーといった面々。ちょうどデッドがアコースティック志向のアルバム『Workingman's Dead』を発表した頃で、時代がサイケデリックなロックからルーツ志向のロックへと移る過渡期の記録として非常に興味深い内容だった。
ツアーの参加者についてふたりはうる覚えだったが、バーニーは「映画の中で一番好きなシーンは、運行途中の列車が酒屋に立ち寄るために停車し、出演者たちがみんなで酒瓶を列車に運び込むところ」と言って、聴衆を笑わせていた。
二人の出会い:スコッツヴィル・スクワレル・バーカーズ
対談では、司会者がまず二人の出会いについて尋ねる。それは、1963年サンディエゴでの話だ。当時高校を卒業してまなしのクリスはLAでアルバイト生活を送っていたが、生まれ育ったサンディエゴの旧友ゲイリー・カーとケニー・ワーツに誘われて、彼らが結成したばかりのブルーグラスバンド「スコッツヴィル・スクワレル・バーカーズ」にマンドリンで参加する。この経緯については、前述の私の記事でも簡単に紹介したが、当時高校生だったバーニーはこのバンドの徒弟のような存在で、クリスがバンドに参加する前から、他のメンバーたちと親しくしていたようだ。
バンドは、メンバーのラリー・マーレイが経営していた「ブルーギター」というギターショップの店内演奏から始まったもので、バーニーはその店に足繁く通う常連だった。バンジョー弾きだった彼は、バンドのバンジョー奏者ケニー・ワーツから多くを学んだという。半年ほどの活動の後、ケニーそして、ヴォーカルとギターのゲイリー・カーが徴兵に取られることになり、バーニーがケニーの後釜に収まるが、その後すぐにレドン一家がフロリダ州ゲインズヴィルに引っ越すことになり、グループは消滅してしまう。ちなみに、ケニー・ワーツは70年代初めに、フィドルのバイロン・バーラインらとプログレシッブなブルーグラスバンド、カントリーガゼットを結成。ガゼットは、当時、フライング・ブリトー・ブラザーズのツアーに同行して彼らと共演しており、ブリトーズの公式ライブアルバムにもその様子が収められている。ヒルマンが今回の対談で「スクワレル・バーカーズが源泉だった」と語っているように、60年代後半〜70年初頭のLAカントリーロック・コネクションの中でこのブルーグラス・グループの人脈が果たした役割は極めて大きい。
ふたりが楽器を始めた理由
次に司会者は、ふたりが楽器を始めた理由について尋ねている。まずは、バーニーの回答を引用してみよう。
一方、クリス・ヒルマンは、マンドリンを始めた理由についてこう答えている。
バーニーがカリフォルニアに戻った経緯
対談はヒルマンがブルーグラス・グループ「ザ・ゴールデンステート・ボーイズ」に参加したエピソードから、ザ・バーズ結成にいたる話へと展開する。その内容については前掲の記事で取り上げたものとほぼ同様なのでここでは割愛するが、面白かったのは、その頃フロリダにいたバーニーがバーズのレコードを初めて見たときの反応だ。
バーニーがカリフォルニアに戻った経緯についてはこれまであまり詳しく知らなかったが、今回、彼は次のように説明している。
ハーツ&フラワーズは、メンバーのラリー・マーレイ自身が「マール・ハガード・ミーツ・サージェントペッパー」と称していたように、元々はカントリーの要素もあるバンドだったらしい。しかし、出来上がったレコードは、時にインド風メロディが顔を出すような、サイケデリック・フォークロックといった趣きで、フラワームーヴメント華やかし頃にLAで「作られた」時代の音を象徴していた。
プロデューサーのニック・ヴェネットは、ストーン・ポニーズの最大のヒット「Different Drum」(哀しきロックビート)も生んだ人だが、この曲も元々はもっとラグタイム調のゆったりした曲だったという。ハープシコードも持ち込んだヴェネットのアレンジに、ヴォーカルのリンダ・ロンシュタットはかなり閉口したという。(この時代のLA産コマーシャル・フォークロックには、ビーチ・ボーイズの『ペットサウンズ』の影響か、ハープシコードの音が結構目立つように思える)。バーニー・レドンはこの完成版の「Different Drum」にもギターで参加している)
このように、ハーツ&フラワーズのアルバム自体は、時代の空気感を感じる以外、特筆すべき作品とは言えないが、このグループのメンバーたちがその後のLAのカントリーロックシーンの礎になったことは無視できない。スコッツヴィル・スクワレル・バーカーズ出身のラレー・マーレイは、バーズがラストアルバムで取り上げた「Bugler」やリタ・クーリッジやスワンプウォーターが取り上げた「Mama Lou」などの佳曲を残しているし、自身唯一のソロアルバム『Sweet Country Suite』(1971年)もカントリーロックの好盤だ。また、オリジナルメンバーのリック・クーナは、エミルー・ハリスのデビュー作にバーニー・レドンとともにギターで参加しているほか、ジェニファー・ウォーンズが80年に中ヒットさせた「When The Feeling Comes Around」の作者でもある。ちなみに、ラレー・マーレイは、今回の博物館の展示でキュレーター役を務めたという。
ディラード&クラーク結成にいたるエピソード
ハーツ&フラワーズ解散後、バーニーは、元バーズのジーン・クラークと元ディラーズのバンジョー奏者・ダグ・ディラードが結成した「ディラード&クラーク」に参加する。その当時、バーニーはダグ・ディラードの家に居候していたようだ。そのこと自体の経緯については今回特に語られなかったが、バンジョー奏者として優れた実績を残していたダグ・ディラードのもとに弟子入りした感じたったのだろう。ディラード&クラークのファースト『The Fantastic Expedition of Dillard & Clark』(1968年)では、後にイーグルスのファーストにも収められる「Train Leaves Here This Morning」のほか、多くの曲でバーニーが作者としてクレジットされているが、その経緯についてバーニーは次のように語っている。
ジーン・クラークの作詞能力については、クリス・ヒルマンが興味深い話をしていた。
これについて、バーニーがこう補足した。
フライング・ブリトー・ブラザーズの演奏とカントリーロックの萌芽期
カントリーロックの歴史を語る際、クリス・ヒルマンがグラム・パーソンズをバーズのセッションに誘い、そこからエポックメイキングなアルバム『Sweetheart of the Rodeo』(ロデオの恋人)が生まれたこと。さらに、その後、フライング・ブリトー・ブラザーズの結成に至ったことは外せない話だ。その経緯については、今回語られたことと、ヒルマンの自伝に基づいて私が以前の記事で紹介したこととの間に大差はなかったが、自伝では触れられていなかったことでヒルマンが今回語ったことがひとつある。
それは、グラムがバーズとの初セッションで、バック・オウェンスの「Under Your Spell Again」を歌い、それを聞いて、クリスが自分と同じ仲間だと感じたという話。クリスもグラムも、バック・オウェンスやマール・ハガードなどのベイカーズフィールド・カントリーに対する共通項があることは周知の事実だが、このセッションで演奏された具体的曲名が出てきたことはなかなか興味深い。
バーニーがブリトーズに参加した最初のアルバムは、セカンド『Burrito Deluxe』(1970年)だ。このアルバムカバーは、メキシコ料理のブリトーにラメを施したような変な写真だが、アルバムカバーのフォトセッションに出向いたバーニーは、グラム・パーソンズが放射線防護服とビニールの手袋とブーツを持ってきたことに面食らったという(その写真は、表面には小さく、裏面に大きく使われている)。ベトナム戦争期の時代を象徴したエピソードとも言えるが、バーニーいわく、「ああいうのは、自分がバンドリーダーでないと、その時までわからないことだね」と言い、クリスは「止めさせておけば良かったことのひとつだ」と言って、会場の笑いを誘っていた。
グラム在籍時のブリトーズがライブバンドとして今ひとつだったことは、クリスの自伝からも今回の対談からも伺い知れる。なにしろ、グラムは、遅刻はするわ、酔ってステージに上がるはと、惨憺たる状況だったのだ。今回、クリスは次のように語っている。
ブリトーズの演奏については、バーニーもこんな話をしていた。
ブリトーズの演奏について自嘲気味だったヒルマンに対して、司会者が、軌道修正を図るようなうまい振りをしていた。一連の会話を再現してみよう。
話の流れで、クリスがこう続けた。
イーグルス結成時のエピソード
「イーグルスは、リンダ・ロンシュタットのバックバンドから独立した」とよく言われるが、オリジナルメンバー4人が同時期にリンダのバックで演奏していたことは殆どない。71年当時、リンダのバックバンドの中核をなしていたのは、テキサス出身のスワンピーなカントリーロックバンド「シャイロ」のメンバーたちで、そのドラマーがドン・ヘンリーだった。
このシャイロと同じエイモスレコードのレーベルメイトだったロングブランチ・ペニーホゥィッスルのグレン・フライがそこに加わったような形が、リンダのバックバンドを構成していた。そんな中で自分たちのバンド結成を思い立ったドンとグレンに、リンダがバーニーを推薦したという話も聞いたことがあるが、今回のバーニーの話は少しニュアンスが異なる。
確かに、71年に発表されたリンダのセルフタイトルのサードアルバムのクレジットを見ても、バーニーがグレンやドンと共演している曲は1曲もない。ランディ・マイズナーとの共演は1曲だけあるが、バーニーが入っている曲はハーブ・ペダースンとの共演が多い。
イーグルスは、デビューに際してイギリス人プロデューサーのグリン・ジョンズにプロデュースを任せているが、その経緯についてバーニーは次のように説明していた。
そう言えば、ブートレッグなどで初期イーグルスのライブを聞くと、コンサートのオープニングにアカペラで「Fair and Tender Ladies」を歌い、それに続けて「Take It Easy」を演奏することがよくある。定番になっていたようだ。グリン・ジョンズによって悟らされたのかわからないが、当時はメンバーたちも自分達のウリはハーモニーだと認識していたのだろう。そして、この辺りのハーモニーには、彼ら(特にバーニー)のブルーグラス・ルーツが多分に感じられる。(ちなみに、ジャクソン・ブラウンも、初期のライブでは「Fair and Tender Ladies」と「Take It Easy」、そして「Our Lady of the Well」をメドレーにすることが多かった)
演奏者としてプロフェショナルに徹する姿勢
今回の対談でふたりが共に強調していたことがふたつある。ひとつは、曲の良さが大事ということ。特にバーニーは、メロディがないがしろにされている最近の状況に苦言を呈していた。そして、もうひとつ二人から共通して感じられたのは、プレイヤー(演奏者)としてプロに徹する姿勢だ。これについてバーニーは、イーグルスを始めたときのエピソードとしてこんな話をしていた。
また、ヒルマンが、みんなが知っている話として、バーズのデビューシングル「Mr. Tambourine Man」とそのB面の演奏は、そのほとんどを通称「レッキングクルー」と呼ばれていた当時のLAの一流セッションマンたちが務めた話を紹介すると、バーニーは真面目な顔でこう言っていた。
ヒルマンも、前述の通り、グラム・パーソンズのプロ意識のなさに辟易していた。フロリダの大農園の御曹司だったグラムには何もしなくても多額の資産があり、音楽という仕事と真剣に向き合う姿勢が欠如していたからだ。彼からは、こんな言葉も聞かれた。
これに対して、バーニーはこう応えていた。
クリス・ヒルマンとバーニー・レドンは、ともにアメリカのロックの歴史を作ってきた偉大なバンドのメンバーだったにも関わらず、どちらかと言えば、それらのバンドの中では目立たない存在だった。ふたりとも、必ずしも世間一般に広く認知されているわけではない。グレン・フライやドン・ヘンリー、あるいはグラム・パーソンズやスティーヴン・スティルスといった、いわばスター性のある人たちの影で「脇役」に徹してきた人たちだ。しかし、こんなふうに純粋に音楽が好きで、それに向き合う人たちがいたからこそ、彼らが所属していたバンドが歴史に残るグループになったと思えるし、そういう彼らのミュージシャンシップにこそ、強く惹かれる。
最後に、そんな彼らのミュージシャンシップを示す好例として、クリスとバーニーが80年代初頭に組んでいたアコースティック・カルテットの映像リンクを張っておこう。ドブロはアル・パーキンス、ベースはエルヴィス・プレスリー・バンドのベーシストだったジェリー・シェフだ。
今回の対談の全編は、下記でご覧になれます。
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