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クリス・ヒルマン自伝『Time Between』から見る、カリフォルニア産カントリーロックの系譜(その2:バーズ中期〜FBB)

前回に引き続き、ザ・バーズ、フライング・ブリトー・ブラザーズ、マナサス、デザートローズバンドなどで活躍してきたクリス・ヒルマンの自伝『Time Between — My Life As A Byrd, Burrito Brother, And Beyond』(2020年刊行)から、彼の足跡を辿っていきたい。今回は、カントリーロックの礎を築いたとされるザ・バーズの名盤『Sweetheart of the Rodeo』(『ロデオの恋人』)に至った経緯から見ていこう。(ここまでの経緯については、前回の記事をご覧ください)

『Sweetheart of the Rodeo』

アルバム『The Notorious Byrd Brothers』(邦題『名うてのバード兄弟』)が発表された1968年初めのザ・バーズは、デイヴィド・クロスビーの解雇とマイケル・クラークの脱退で、ロジャー・マッギンとクリス・ヒルマンのふたりだけになってしまっていた。そんな時ヒルマンは、自分たちと同じマネージャー(ラリー・スペクター)がマネジメントを担当していたことが縁で、「インターナショナル・サブマリンバンド」というベイカーズフィールド・スタイルのカントリーバンドをやっていた若者、グラム・パーソンズと知り合う。最初にグラムに会ったとき、ヒルマンは「とても魅力的で、感じのいいナイスガイ」という印象を持ったと言う。しかも、自分と同様、カントリーミュージックへの愛着が深いことから2人は意気投合。その後しばらくして、ヒルマンはパーソンズをバーズのセッションに誘う。当時、マッギンとヒルマンは「Eight Miles High」などで示してきたジャズ的なアプローチを拡大するためにキーボードプレイヤーを加えてもいいと考えており、パーソンズがキーボードも弾けることに着目したのだった。そのセッションでのパーソンズのキーボードは「そこそこ」だったが、リズムギターも弾けるし、自作の曲も歌えるということで、彼は採用される。しかし、これは取り敢えず当面の手当てであって、ヒルマンによると、正式メンバーとして迎えたわけではなかったという。

『Sweetheart of the Rodeo』制作時のバーズのラインアップ(Photo: 『Hickory Wind - The Biography of Gram Parsons』より)

この頃、マッギンとヒルマンは次作のアイデアを練っていた。それは、20世紀のアメリカ音楽の進化を辿る2枚組というコンセプトで、1枚目にアコースティックなフォークやカントリー調の作品を集め、2枚目にエレクトリックなスペースミュージックを収めるというものだった。(当時のマッギンは、スペース(宇宙)的なものへの関心が高かったし、アメリカではアポロ計画が着々と進行していた)。そうして、バンドは、カントリーの聖地・ナッシュビルに赴いて録音を開始する。通説では、グラムが同地での録音を執拗に勧めたとされているが、クリス・ヒルマンの自伝にそういった記述は特にない。単に「このプロジェクトを始めるにあたって、ナッシュビルから始めるのが最適だと思った」と書かれているだけだ。(ヒルマンのプライド的に、パーソンズに勧められたとは書きたくなかったのかもしれない)

このバーズのナッシュビル滞在にはいくつかの有名なエピソードがあるが、そのうちのひとつが、カントリーの人気ラジオ番組「グランドオールオープリー」に出演したときのものだ。この時、彼らは、その後アルバム『Sweetheart...』の1曲目となる、ディラン作品「You Ain't Goin' Nowhere」とマール・ハガードのカバー「Sing Me Back Home」の2曲を歌う予定だった。ステージに登場したカリフォルニアから来た若者たち(=バーズ)に、ナッシュビルの保守的な観客から多少のブーイングも聞こえる状況だったという。そんな中、1曲目を終えたメンバーたちに司会のトムパル・グレイザーが「次はマール・ハガードの曲を歌ってくれるんだね?」と声を掛ける。すると、グラムがマイクの前にしゃしゃり出てこう言った。「いいえ、次は、今夜聞いてくれている僕のお婆ちゃんのために、『Hickory Wind』という曲をやります」。ロジャーとクリスは、驚きながらもグラム作の「Hickory Wind」を急遽演奏、何とか無難にこなしたが、グレイザーは舞台を降りてから「俺に恥をかかせやがって!」とカンカンだったという。(ちなみに、トムパル・グレイザーは60年頃からカントリー界で活躍していた人だが、70年代半ばにはウィリー・ネルソン、ウェイロン・ジェニングスらとともに「アウトローカントリー」ムーブメントの一翼を担っている)

ナッシュビル録音の後、LAで追加の録音を行ったアルバム『Sweetheart of the Rodeo』(『ロデオの恋人』)は1968年8月に発表された(このアルバムには、後に『地下室』として日の目を見るボブ・ディランとザ・バンドのビッグピンク・セッションのアセテート盤から、前述の「You Ain't Goin' Nowhere」ほか2曲が収められているが、本アルバム発表の前月にはザ・バンドの『Music from Big Pink』が発表されていて、今でいうルーツロックの流れが出来つつある過程として興味深い)。今日でこそ、カントリーロックの礎としてカルト的な評価がなされている『Sweetheart...』だが、発表当時は、評論家の評価こそ悪くなかったものの、セールス的には惨敗で、シングル「You Ain't Goin' Nowhere」が75位、アルバムも77位どまりに終わった。アルバムが当初コンセプトの2枚組から1枚もののカントリーアルバムで終わった理由については自伝では詳しく触れられていないが、ヒルマンはこのアルバムについて「自分の好きなバーズのアルバムではない」と語っている。

パーソンズとヒルマンがバーズを脱けた理由

クリス・ヒルマンとグラム・パーソンズがバーズからフライング・ブリトー・ブラザーズ(FBB)に至った経緯については、『Sweetheart...』でのカントリーロック的アプローチで意気投合したふたりが、その方向性をさらに推進すべく結成したのがFBBと言われることが多い。これは必ずしも間違いではないが、実際の流れはそれほど単純なものではなかった。それについては、1991年に出版されたロックジャーナリスト ベン・フォン・トレスによるグラム・パーソンズの伝記『Hickory Wind - The Biography of Gram Parsons』でも語られていたが、今回は当事者のクリス・ヒルマン自らの証言として確認することができた。

まず、アルバム『Sweetheart of the Rodeo』が発表された68年8月の時点で、グラム・パーソンズは既にバーズのメンバーではなかった。1990年にバーズのボックスセットが出た際、オリジナルアルバムでロジャー・マッギンのヴォーカルに差し替えらていた3曲のグラム・パーソンズ・リードヴォーカル・バージョンがお目見えし、私のようなファンを喜ばせたが、自伝でのヒルマンの言によれば、ロジャーのヴォーカルこそが然るべき姿だという。

グラム・パーソンズがナッシュビルでとった突拍子もない行動について、その時もっと認識すべきだったとヒルマンは言う。『Sweetheart...』セッションの後、バンドはすぐに欧州ツアーに出発。グラムはそこでローリングストーンズのメンバーに紹介される(マッギンやヒルマンは以前のツアー時に既に彼らと知り合っていた)。バンドは欧州ツアーの後、南アフリカツアーを控えていたが、グラムは直前になって、南ア行きを拒む。表向きは南アの人種差別政策に反対だからという理由だったが、実際は、意気投合したキース・リチャーズともっと一緒にいたかったからだとヒルマンは言う(グラムの伝記でも同様の記述がなされていた)。人種差別政策に反対なのであれば、もっと前から声を上げられたはずだが、グラムは直前まで何も言っていなかったという。バンドはグラム抜きで南アに向かうことになり、グラムはこの時点で即刻クビを宣告された。

クリス・ヒルマン自身がバーズを抜けたのは、少なくともその時点においては、グラム・パーソンズと一緒にやりたかったからではないし、ロジャーとの確執や音楽的な見解の相違でもない。ヒルマンは、グラムが抜けた穴を埋めるべく、既にバーズのアルバムに度々参加していたブルーグラス時代からの旧友、クラレンス・ホワイトのリクルートを進言する。さらに、ケヴィン・ケリーの後釜として、クラレンスの音楽パートナーで、ドラムのほかにバンジョーもこなすジーン・パーソンズを加え、演奏面を強化する。しかし、この新ラインアップが揃って1〜2週間後のギグのバックステージで、クリスはマネージャー ラリー・スペクターの横暴なふるまいを目の当たりにする。所属するコロムビアレコードと勝手に契約を更新し、バンドがコロムビアのスタジオで使える時間契約を削った上、コロムビアから前金をもらい、その大部分を自分の懐に入れようとしていたのだ。以前からスペクターの金儲け主義にフラスレレーションが溜まっていたクリスは、この一件で堪忍袋の緒が切れ、その場でベースを叩きつけて脱退を宣言したという。

フライング・ブリトー・ブラザーズ結成への流れ

バーズを抜けたヒルマンは、意外にも自分たちがクビにしたグラム・パーソンズに連絡を取る。「グラムはとてもチャーミングに思えるときがあり、再び彼の魔力にかかってしまった」とヒルマンは書いている。グラム・パーソンズについては、前述の彼の伝記を読んで以降、私もかなりイメージが変わったのだが、結構問題の多い人だったようだ。母親がフロリダのオレンジ農園の大金持ちの出身で、実家から入ってくるお金がたんまりある上、甘やかされて育ったせいかプロ意識に乏しい。人の心を捉える天性の才能があるにもかかわらず、結果的に「sex, drugs, and rock'n' roll」(そしてアルコール)に溺れて若死にしてしまう構図は、ジャニス・ジョプリンやジム・モリソンにも通じるものがある。

いずれにせよ、このときクリスは、再びグラムに接近し、共同生活を始める。ふたりが意気投合した理由として、互いにカントリーミュージックが好きという共通項があったが、この場合のカントリーミュージックとは、主にはバック・オウェンスマール・ハガードなどのベイカーズフィールド産のカントリーだった。ベイカーズフィールドは、ロサンゼルスの北西に広がる農業地帯サンホーキンバレーにある町で、1930年代の大恐慌の頃に、オクラホマやテキサスから多くの貧しい人々が出稼ぎ労働に来た町だった(ウッディ・ガスリーもそのひとりだった)。その地を中心に栄えたカントリーミュージックは、スタジオミュージシャンを使って「生産」されるナッシュビルのコマーシャルなカントリーとは一線を画す、バンドスタイル〜ホンキートンクスタイルのカントリーだった。

70年前後にLAでカントリーロックが隆盛した理由のひとつとして、連載の1回目で、60年代初頭のLAでのブルーグラスを含むアコースティック音楽シーンの盛り上がりについて述べたが、もうひとつの理由として、同じ頃、同じ南カリフォルニアで、ホンキートンクスタイルのカントリーミュージックが隆盛を極めていたという事実も忘れてはならない。ベイカーズフィールドのカントリーからの影響について今回のヒルマンの伝記ではさほど多くは語れていないが、彼はこの種の音楽へのトリビュート作品となる『Bakersfiled Bound』というアルバムをハーブ・ペダースンとのデュオで90年代に発表している。

共同生活を始めたふたりが最初に共作したのが、今やカントリーロック・クラシックとなっている名曲「Sin City」だ。CSNの「Wooden Ships」やジャクソン・ブラウンの「For Everyman」「Before the Deluge」にも通じる、黙示録的情景を描写するこの曲は、何もかも金の力で飲み込んでしまう「罪の街」を歌ったものだが、そのアイデアの元は、クリスのバーズ脱退の原因となった拝金主義者のマネージャー、ラリー・スペクターだった。サビの最後で歌われる「31階の金メッキのドアでも、主の燃える雨を防ぐことはできない」という歌詞は、実際に高層マンションの31階に住んでいたスペクターの家のドアからインスピレーションを得たという。また、3番の歌詞「友人がやってきて、この町をきれいにしようとしたが、その考えに怒りを憶える者たちもいた / それでも彼は民衆を信じ、声高に語り掛けた。そうして民衆たちは最良の友人をなくしてしまった」は、68年11月に暗殺されたロバート・ケネディのことを歌っている。この曲は、数年後にイーグルスが『ホテル・カリフォルニア』で投げ掛けることになるのと同様のテーマ(=退廃的なロサンゼルスの姿)を既に取り上げている点でも興味深い。

「Sin City」の後、ふたりは2週間のうちに、「Christine's Tune (Devil In Disguise)」「Juanita」「Wheels」といった名曲を一気に書き上げる。そして、本物のカントリーミュージックをロックのオーディエンスに届けたいという共通のビジョンの元、クリス・エスリッジ(b)とスニーキー・ピート(steel g.)を加え、新たなバンド フライング・ブリトー・ブラザーズ(FBB)を結成し、A&Mと契約。こうして1969年2月にファーストアルバム『The Gilded Palace of Sin』(『黄金の城』)が発表される。このアルバムタイトルは前述の曲「Sin City」のコンセプトから取ったものと思われるが、直訳すると「金ぴかの罪の宮殿」。この「宮殿」とはロサンゼルス(特にそのエンターテイメント業界)のことであり、同じコンセプトに後年与えられた別の比喩が「ホテル・カリフォルニア」だと言えるだろう。

再びグラム・パーソンズを解雇

今日でこそ「カントリーロックの金字塔」と賞される『The Gilded Palace of Sin』だが、そのような評価が与えられるようになったのは、90年代以降の話。発売当時はほとんど売れず、ビルボード最高位は164位だったようだ。続いてバンドは「The Train Song」というシングルをリリースする。これは、グラムの発案でR&Bアーティストのラリー・ウィリアムス(ビートルズがカバーした「Dizzy Miss Lizzy」や「Slow Dow」の作者)とジョニー・"ギター"・ワトソンをプロデューサーに迎えたものだが、これも全く売れなかった。(オリジナルアルバム未収録のこの曲の出来は、確かにあまり良くない)この曲の録音の際、グラムは大量のコケインを持参し、ウィリアムスやワトソンに振る舞っていたという。

この後、クリス・エスリッジが抜けたことで、ヒルマンがベースに回り、新たにヒルマンのかつてのブルーグラス仲間で、当時、リンダ・ロンシュタットのバックバンド・コーヴェッツにいたバーニー・レドンを引き抜くが、クリスとグラムの蜜月は既に終わっていた。クリスによると、グラムは良い音楽を演奏することよりも、スターとして見られることばかり意識し、ミック・ジャガーのようになりたがっていたという。(そのことは、テレビ番組用の彼らの映像(セカントアルバムからの「Older Guys」)を見ても納得できる)

ギグにはしょっちゅう遅刻するし、ようやく現れても酔っ払って曲を間違えるなど、惨憺たる状況だったというグラム。そんな中で録音されたセカンドアルバム『Burrito Delux』(1970年4月発表)は、クリスによると、「ファーストアルバムにあったグルーヴやユニークなヴァイブからはほど遠いものだった」という。グラムは、ミック・ジャガーとキース・リチャーズに頼みこんで、彼らがスニーキー・ピートにスティールギターのオバーダブを頼むために送ってきた「Wild Horses」を先行リリースさせてもらうことに成功するが、クリスいわく、「メロドラマのように感傷的で、自分たちがセカンドアルバムでやろうとしたことには全くそぐわなかった」といい、「もうどうにでもなれ」という気持ちだったという。

69年12月、ストーンズに誘われてオルタモントのフリーコンサートに出演、「オルタモントの悲劇」を目の当たりにしたブリトーズだが、翌70年の春、あるギグで遅刻した上、酔っ払ってボロボロの状態でステージに立ったグラムに切れたヒルマンは、そのバックステージでグラムのギターを叩き壊し、またしても彼にクビを宣告する。

最強のFBBラインアップ

グラムの後任となったリック・ロバーツを連れてきたのは、バーズ初期にジム・ディクソンとのチームで彼らのマネジメントを担当し、この当時のブリトーズのマネジメントも引き受けていたエディ・ティックナーだった。LAのサンッセット・ブールバードでヒッチハイクをしていたロバーツにティックナーが出会い、ブリトーズのリハーサルに連れてきたという。パーソンズと違ってプロ意識の高いロバーツは、すぐにメンバーとして受け入れられる。こうして71年6月に発表された3作目『The Flying Burrito Bros』は、ヒルマンとしても満足のいく作品になったようで、商業的にも前2作よりは好セールスを記録した。

このアルバムの録音後ほどなく、スニーキー・ピートが脱退(クリスによると、スニーキーは元々コマ撮りアニメ制作を第一のキャリアとして考えており、家にいる時間を増やしたかったからだという)。スニーキーの後任としてティックナーが連れてきたのが、シャイロというバンドとともにテキサスからLAにやってきていたスティールギター奏者、アル・パーキンスだった(このシャイロでドラムを叩いていたのがドン・ヘンリー、キーボードは後にイーグルスのストリングスアレンジや、多くのアーティストのプロデューサー、ワーナーブラザーズ・ナッシュビルの社長にもなる、ジム・エド・ノーマンだった)。クリスいわく、このときのメンバー(クリス・ヒルマン (vo. b)、バーニー・レドン(vo. g)、リック・ロバーツ(vo. g)、マイケル・クラーク (ds)、アル・パーキンス(g. steel))が、ブリトーズとしては最高のラインアップだったという。

しかし、間もなくして、バーニー・レドンが新たな可能性を探りたいと脱退(その後、ほどなくイーグルス結成に参加)。それでも、ライブバンドとしての手応えを感じていたヒルマンは、次作をライブアルバムとすることとし、ブルーグラス時代の同僚ケニー・ワーツや、その仲間であるカントリーガゼットのメンバー(バイロン・バーラインロジャー・ブッシュ)をゲストに、ブルーグラスセットもフィーチャーしたライブ活動を展開する。

エミルー・ハリスを発掘

LA出身のブリトーズだが、70年代に入ってからの彼らのライブ活動の中心は東海岸だったという。なかでも、独自のアコースティック音楽シーンが形成されていた首都ワシントンDCのジョージタウン地区で演奏することが多かったようだ。1971年のある日、ブリトーズはジョージタウンの有名なライブハウス「セラードア」で演奏していた。その休憩の合間に何気なく近くのライブバーに立ち寄ったリック・ロバーツとケニー・ワーツがすぐに戻ってきてクリス・ヒルマンに言った──素晴らしい女性シンガーがいるから、すぐに見に来い、と。半信半疑で見に行ったヒルマンは、生ギター1本でフォークソングを歌うその女性の声に一瞬で魅せられたという。それが、エミルー・ハリスだった。その夜の自分たちのステージで1曲一緒に歌ってくれないかと誘うヒルマンたちに応じたエミルーだったが、さらにその後、自分たちのバンドに加わらないかという誘いは丁寧に断ったという。

それから数日後、ヒルマンはボルチモアでグラム・パーソンズに再会する。グラムはブリトーズをクビになった後、キース・リチャーズを頼って、恋人とともに1年近くキースの自宅や彼が借りていた南フランスの別荘(そこで『Exile on Main St.』のセッションも行われていた)に居候していたが、さすがに長すぎたのか、丁寧に追い返されたようだった。クリスがグラムに会ったとき、彼はドラッグを断っており、酔っ払ってもいなかった。そうなると彼本来の人懐っこい魅力が溢れ出て、またしてもクリスは彼と旧交を温めることになる。グラムは、ソロアルバムを作ろうと考えていて、一緒に歌ってくれる女性シンガーを探していると言う。その時、クリスの頭に思い浮かんだのが、近くのDCを拠点にしているエミルーだった。「連絡してみろよ」と言うクリス。その後は周知のとおり。エミルー・ハリスは、グラムが1973年9月に薬物とアルコールの過剰接種で亡くなるまで彼のヴォーカルパートナーを務め、その後現在に至るまで、プログレッシブな女性カントリーシンガーとして第一線で活躍し続けている。

一方、この頃、クリスはもうひとりの旧友とも再会を果たす。それが、彼の次のステップにつながっていくのだった。

次回につづく

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