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クリス・ヒルマン自伝『Time Between』から見る、カリフォルニア産カントリーロックの系譜(その1)

クリス・ヒルマンの自伝『Time Between — My Life As A Byrd, Burrito Brother, And Beyond』を読んだ。70年代のウェストコースト産ロックがあのような音像になったことを語る上でクリス・ヒルマンが果たしてきた役割は小さくないし、ヴォーカリスト、インストゥルメンタリストとしても秀でた存在だと思うのだが、ヒルマンに対する評価や人気は彼と一緒に活動してきた人たちに比べ必ずしも十分とは言えない。バーズのオリジナルメンバーたちの音楽にはそれぞれに愛着がある私だが、強いて誰かひとり一番好きな人を挙げろと言われれば、クリス・ヒルマンの名を挙げたい。そのくらい思い入れのある彼の足跡を、自伝で初めて知った話や印象的なエピソードを交えながら数回に分けて紹介したい。

『Time Between — My Life As A Byrd, Burrito Brother, And Beyond』

この自伝『Time Between — My Life As A Byrd, Burrito Brother, And Beyond』は2020年に刊行されたもの。まずはクリス・ヒルマンのことをあまりご存じない方のために、本書の表紙袖に書かれている紹介文を引用しよう。

バーズやフライング・ブリット・ブラザーズの共同創設者として、クリス・ヒルマンは、間違いなく「カントリー・ロック」として知られることになるジャンルを構築した立役者だ。その後も、スティーヴン・スティルスのマナサスのメンバーとして、またサウザー・ヒルマン・フューレイ・バンドの共同創設者としてなど、さまざまな編成でレコーディングや演奏を行っている。1980年代にはデザート・ローズ・バンドを結成し、ビルボードカントリーチャートで8曲のトップ10ヒットを記録。ソロとしても、2017年に故トム・ペティ最後のプロデュースアルバムとして高い評価を得た『Bindin' My Time』をはじめ、数多くの作品を残している。

『Time Between — My Life As A Byrd, Burrito Brother, And Beyond』/ Translated by Lonesome Cowboy

このようにまとめるとごく簡単に終わってしまうが、今回の自伝では、上に出てくるそれぞれのバンドやソロ活動に至った経緯、そして、それらがどういう理由で終わったのかが本人の視点で描かれていて大変興味深い。上述の紹介コピーの通り、クリス・ヒルマンは紛れもなく「カントリーロック」のパイオニアのひとりと言えるが、私がこの種の音楽を周回遅れで貪り聞いていた80年代には、「カントリーロック」という言葉はほとんど死語だった(当然「ルーツロック」や「アメリカーナ」といった言葉はまだ存在しなかった)。グラム・パーソンズの魅力を語りたくても話せる相手は周りにいなかったし、情報も限られていた。それが90年代になっていわゆるオルタナカントリー系のアーティストが出始めた頃から状況が変わってくる。当時の若手アーティストたちがこの種の音楽からの影響をこぞって語り始めたのだ。とりわけグラム・パーソンズに関しては、26歳という若さで亡くなった数奇な運命も相まって、カルト的な祭り立て方をされるようになる。しかし、グラムとともにカントリーロックの土台を築いたクリス・ヒルマンに対して注目や評価がなされることは、ほとんどなかったように思う。

それにしても、そもそもなぜ南カリフォルニアでカントリーロックが花開いたのか? それを語る上では、フロリダからLAに流れ着いたグラム・パーソンズを語るよりも、南カリフォルニアで生まれ育ったクリス・ヒルマンの生い立ちを見ていく方がわかりやすいだろう。

60年代初めのLAアコースティック音楽シーン

クリス・ヒルマンは1944年生まれ。生まれはLAだが、幼くして彼の一家はサンディエゴ近郊の田舎町に引っ越す。子供の頃は、馬に乗ったり、西部劇やスーパーマンなどのアクションヒーローに夢中になったり。音楽的な面で最初の衝撃を受けたのは、1950年代半ばのエルビス・プレスリーの登場。次いでチャック・ベリーやリトル・リチャード、エバリーブラザーズらにも夢中になった。この辺りの幼少体験は同時代のミュージシャンの伝記を読むと大体同様だが、クリスの場合、隣の州アリゾナで1945年に生まれたリンダ・ロンシュタットとかなり通じるものがある(リンダも子供時代に親に頼んで仔馬を買ってもらっている)。ただ、クリスの場合、さすがにカリフォルニアンらしく、中学から高校にかけてはサーフィンにも夢中になっている。

自伝によれば、1959年になるとチャック・ベリーやリトル・リチャードなどの本物のロックンロール(R&R)が急にラジオから消え、コマーシャルなポップスばかりが目立つようになったという。それと時を同じくして、大学生などを中心に「意味のある音楽」として脚光を浴びるようになったのがフォークミュージックだった。いわゆる「フォークリヴァイバル」だ。クリスも、大学生だった姉の影響で、ウディ・ガスリーやピート・シーガー、ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズらを聞き始め、そこからアコースティック弦楽器に興味を持ち、ギターを手にする。さらに、フラット&スクラッグスやスタンレー・ブラザーズを経て、ビル・モンローのマンドリンを聞いたことで衝撃を受け、マンドリンを弾き始める。

このように、幼少期にR&Rの刷り込みを体験しつつ、多感な10代半ばにアコースティック音楽の洗礼を受けた世代がいたこと──これが60年代末〜70年代前半にカントリーロックが隆盛した理由のひとつではないだろうか(もちろん、厭戦気運など、当時の社会的背景も無視できない)。また、興味深いのは、1960年前後にブルーグラスがフォークと同様、ある程度ポピュラーな音楽だったことだ。例えば、フラット&スクラッグスはテレビにもよく出演していたようで、日本でも放映されていたコメディドラマ「じゃじゃ馬億万長者」(原題「The Beverly Hillbillies」)の主題歌も元々はフラット&スクラッグスの持ち歌だった。

当時のロサンゼルスにはこういったフォークやブルーグラスの演奏を聞かせる有名なコーヒーハウス(クラブ)が複数あった。2大拠点と言われていたのがトゥルバドールとアッシュグローブで、クリス・ヒルマンもフラット&スクラッグスやスタンレー・ブラザーズを聞きにわざわざサンディエゴから通ったという。これらの店では「フート」(hoot(hootenannyの略))とよばれるオープンマイクの日が週1回あり、ミュージシャン志望の若者たちで賑わっていた。この点、一般的にはトゥルバドールの方が有名だが、アッシュグローブも同様の展開をしていて、ライ・クーダーはこの店の常連だったし、リンダ・ロンシュタットは(その後ストーンポニーズを共に結成する)ケニー・エドワーズとこの店で知り合っている。ヒルマンも、後年長きにわたり音楽パートナーとなるハーブ・ペダースンとの最初の出会いはこの店だったという。60年代初め、ボブ・ディランがニューヨークのグリニッジヴレッジに出入りし始めたのと同じ頃、ロサンゼルスでも、20歳前後の若者たちによるアコースティック音楽シーンが確実に存在していたのだ。ローランドとクラレンスのホワイト兄弟や、父ハーブ・ライスに率いられたラリーとトニーのライス兄弟ら、後にブルーグラス第2世代を牽引するような人たちも、このシーンでしのぎを削っていた。

アッシュグローブ (Photo from "FolkWorks")

同時期のニューヨークやボストンのシーンにも、グリーン・ブライア・ボーイズのようなブルーグラス系アーティストはいたわけだが、結果的に見て、LAのアコースティックシーンはブルーグラスの影響がより濃かったように思える。ブルーグラスグループに多い兄弟や家族による絶妙なハーモニーヴォーカルが後のウェストコーストロックの特徴のひとつとなるヴォーカルハーモニーのルーツになったと考えても不思議はないだろう。(ただし、フォーフレッシュマンらのジャズヴォーカルグループの影響を受けていたビーチボーイズや、ジャズに傾倒していたデイヴッド・クロスビーによるCS&Nはまた別の系譜と言える)

バーズ結成にいたる流れ

クリス・ヒルマンは、高校卒業後、地元サンディエゴの仲間、ゲイリー・カーとケニー・ワーツ(後のカントリーガゼットのメンバー)に誘われて、彼らのブルーグラスバンドにマンドリンで参加する。スコッツヴィル・スクワレル・バーカーズというそのバンドには、後にサイケデリックなフォークロックバンド「ハーツ&フラワーズ」を結成するラリー・マーレイもいた。ディズニーランドなどでも演奏していたバーカーズだが、周りにレコーディングを薦められたことで連絡を取ったのが、当時テレビ出演などで人気が出始めていたブルーグラスバンド、ザ・ディラーズを担当していたプロデューサー、ジム・ディクソンだった。ディクソンはバーカーズの演奏力を認めたものの、自分にはマネジメントする余力がないとして、スーパーマーケットなどにしか販路がない極小レーベル「クラウンレコーズ」を紹介する。その結果、たった4時間・全て生演奏で録音されたのが、クリス・ヒルマンにとって初めてのレコーディングとなったアルバム『Blue Grass Favorites』だった。しかし、その後間もなくしてゲイリーとケニーが徴兵に取られ、ケニーの後釜として当時まだ高校生だったバーニー・レドンがバンジョーで参加するが、バーニー一家がフロリダ州ゲインズヴィルに引っ越したこともあって、グループは自然消滅してしまう。(ちなみに、ゲインズヴィル(トム・ペティの出身地でもある)に引っ越したバーニー・レドンは、そこで地元出身のギタリスト、ドン・フェルダーに出会っている)

The Scottsville Squirrel Barkers "Blue Grass Favorites"(左)/ "The Hillmen"(右)、いずれも左端がクリス・ヒルマン

バーカーズ解散後間もなくしてクリスは、グループのリーダー格だったエド・ダグラスからある知らせを受け取る。地元で高い人気を誇るブルーグラスグループ、ザ・ゴールデンステート・ボーイズ(GSB)がマンドリン弾きを探しているというのだ。オーディションを受けたクリスは見事合格し、バンドの一員となる。GSBの一員として実績を積んだヒルマンは、バーカーズの最初のレコーディングのきっかけを作ってくれたジム・ディクソンに連絡を取る。GSBの演奏力の高さに驚いたディクソンは早速レコーディングを行うが、結局、レコード会社との契約を勝ち取ることができず、この録音はお蔵入り。この時点(1963年)でフォークやブルーグラスは既にやや下火になっていたのだった。経済的に苦しくなったバンドは解散を選択する。このときのレコーディングは、後年(1969年)、有名になったヒルマンにあやかって『The Hillmen』としてリリースされる(興味深いことに、この作品で早くもボブ・ディラン作品が2曲取り上げられている)。このGSB(The Hillmen)には、70年代にブルーグラス・カーディナルズを結成するドン・パームリー(banjo)、後に一時ジーク・クラークとも活動するヴァーン(gu)とレックス(b)のコズディン兄弟が在籍していた。ヴァーン・コズディンは、80年代以降、シンガー兼ソングライターとしてカントリー界でも活躍している。

ちょうどこの頃、クリスは他の多くのアメリカの若者たちと同様、テレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』でビートルズを観て衝撃を受ける。そして、その後間もなくして、彼はトゥルバドールのフートでアコースティック12弦ギターを手にビートルズの「抱きしめたい」を歌う若者を目にする。ジム・マッギン(後にロジャーと改名)だった。もっとも、ここでヒルマンとマッギンが即意気投合──というわけではない。ヒルマンとマッギンが実際に顔を合わせるのはもう少し後で、バーカーズやゴールデンステート・ボーイズで世話になったジム・ディクソンがここにも絡んでいた。それは、当時ディクソンが売り出そうとしていたフォーク畑出身の3人組「The Jet Set」のリハーサルを見に来ないかいう誘いだった。ヒルマンがリハーサルを見に行くと、そこにいたのはトゥルバドールで「抱きしめたい」を歌っていたジム・マッギン、そしてジーン・クラークとデイヴィド・クロスビーだった。ブルーグラスのハーモニーヴォーカルとはまた別次元の3人のハーモニーに感銘を受けたクリスだったが、その時は見学レベルで終了。その後しばらくして再びディクソンから電話があり、「あのバンドがベーシストを探しているんだが、君はベースは弾けるか?」と聞かれる。全くベースを弾いたことがなかったクリスだったが、ふたつ返事でその役を引き受ける。こうして、同じく新たに加わったドラマーのマイケル・クラークとともに、ザ・バーズのオリジナルラインアップが揃ったのだった。

バーズのデビューにマイルス・デイヴィスが貢献⁈

バーズのデビューヒットとなる「Mr. Tambourine Man」をグループに持ち込んだのは、プロデュースを担当したジム・ディクソンだった。ボブ・ディランのマネージャー、アルバート・グロスマンとも親交のあったディクソンが、何か使えそうな曲はないかとグロスマンに打診したところ、ディランとランブリン・ジャック・エリオットによるこの曲のデモ録音を提供されたという。メンバーたちは最初、特に関心を示さなかったが、4分の2拍子だったオリジナルをマッギンが4分の4拍子にアレンジしたことで、曲は全く新しいものに生まれ変わった。作者のディランも「すげえ、踊れるじゃないか!」と感心したというのは有名な話だ。

クリスの自伝で知った興味深いエピソードがもうひとつある。バーズのレコード契約を勝ち取ろうとしていたジム・ディクソンは、自身の知り合いで、LAでジャズクラブを経営していたベニー・シャピロという人に「Mr. Tambourine Man」のデモを聞かせた。シャピロの家の応接間でそのデモを聞いてもらったところ、まだ10代前半のシャピロの娘が「今の誰⁈」と2階から駆け下りて来たという。シャピロがその話を親しかったマイルス・デイヴィスに話したところ、マイルスが自分が所属するコロムビアレコードの社長に掛け合ってくれ、そのお陰で大手コロムビアとの契約が成立したという。

バーズでの躍進

こうして全米No.1ヒットでデビューを果たしたバーズは、一躍スターダムにのし上がる。デビュー当初、歌わない地味なベーシストだったクリス・ヒルマンも、4枚目のアルバム『Younger Than Yesterday』(邦題『昨日よりも若く』、1967年発表)の頃から頭角を現し始める。この頃までに、マッギンと並んで当初バンドの顔だったジーン・クラークは、飛行機恐怖症が元で脱退。良くも悪くも個性を発揮し出したデイヴィド・クロスビーは、その奔放かつわがままな言動が度を過ぎ、次作の録音途中にマッギンとヒルマンからクビを宣告される(その時の様子は、クロスビーのドキュメンタリー映画『David Crosby: Remember My Name』で再現されていた)。こうなると、マッギンの一番信頼できるパートナーとしてヒルマンの存在感が必然的に高まってくる。さらに、ヒルマン自身の作曲能力も、この1966年頃に急速に高まっていったという。(ヒルマンはこの少し前に、LA郊外のローレルキャニオンに引っ越している。この後、70年代初めまで多くのミュージシャンたちの交流の場となるこの地に移住した最初のミュージシャンのひとりとなっていた)

バーズ中期のヒットで、アルバム『Younger Than Yesterday』の冒頭を飾る「So You Want to Be a Rock 'n' Roll Star」は、ヒルマンが思い付いたイントロと1番のヴァースをマッギンが発展させたものだという。『Younger Than...』にはほかにも4曲のヒルマン作品が収めらているが、なかでも特筆すべきは、自伝のタイトルにもなった曲「Time Between」だろう。ここでヒルマンは、ブルーグラス時代の仲間、クラレンス・ホワイトとヴァーン・ゴズディンをゲストに迎え入れている。後期バーズの特徴〜ひいては70年代初期のカントリーロックのひとつの特徴となるストリングベンダーの原型と言えるプレーが、この時点で早くもフィーチャーされている。バーズはセカンドアルバムでもポーター・ワゴナーのカントリーヒット「Satisfied Mind」を取り上げているが、その時の演奏はまだフォークロックっぽいものだった。それに比べて「Time Between」のサウンドは、「カントリーロック」のプロトタイプといえるものだ。この曲はクリスが初めてひとりで書いた曲で、南アフリカ出身の黒人トランペッター、ヒュー・マサケラのセッションにクロスビーとともに参加して感銘を受けた夜、降って沸いたように出来たという。(80年代のデザートローズバンドの1stアルバムで、クリスはこの曲を再演している)

次作『The Notorious Byrd Brothers』(邦題『名うてのバード兄弟』、1968年1月発表)で、ヒルマンはさらに前面に出る。作曲面での貢献が増えたほか、「Old John Robertson」や「Wasn't Born to Follow」(後に映画『イージーライダー』でもフィーチャーされたゴフィン/キング作品)などカントリータッチの曲も増えてくる。もっともアルバム自体は、ある程度時代性を反映していて、サージェントペッパーズ・ライクなサイケデリックな反戦歌から、ややソウルっぽいホーンを使った曲、カントリーフレイバーの中に突如ジェットマシーンが挿入される曲まで、実験的とも言えるし、まとまりがないとも言える仕上がりになっている。クリスのベースプレイも、それまでよりも印象的なフレーズを奏でるようになっている。

このアルバムの録音途中にオリジナルドラマーのマイケル・クラークが脱退。アルバムが発表された時点で、バーズのメンバーは、ロジャー・マッギンとクリス・ヒルマンの2人だけになってしまっていた。(マイケル・クラークの脱退理由について、ウィキペディアなどにはマッギンとヒルマンが解雇したとなっているが、ヒルマン自身は「なぜ彼が辞めたのか分からない」。その後ハワイに移住したことも考えると「燃え尽き症候群のようになったのだろう」と書いている)

こうして2人になってしまったバーズは、新たに2人のミュージシャンをセッションに誘う。ひとりはクリスのいとこで、タジ・マハールとライ・クーダーのバンド、ライジングサンズにいたドラマー、ケヴィン・ケリー。そして、もうひとりが、バーズと同じマネジメント傘下で「インターナショナル・サブマリンバンド」というベイカーズフィールド・スタイルのカントリーバンドをやっていた南部出身の21歳の若者、グラム・パーソンズだった。

次回につづく

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