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旅のおわり。ルーツに思いを馳せる

 今年のお盆は実家に帰らなかった。生まれて初めてのことだった。
はじめて一人でLCCに乗り、高松から成田を乗り継いで北海道へ渡ったのだ。

人に会い、ばんえい競馬を観戦し、ネカフェでゴロ寝して、帰ってきたら高熱が出た。
帰る時はもったいない、寂しいと思った癖に、振り返ってみたらひたすら慌ただしくて密度の濃い時間を過ごせていたのだなと満足した気持ちになるのだった。

 「私たちはどこから来たのか」
生まれた場所から離れた今、ゴーギャンが唱えた疑問がリアリティを持って心の中にこだましている。

「生き物には輪廻転生があって、経験する主体は肉体そのものに囚われない」との考え方が僕はしっくりくる。

では輪廻転生を経験できる魂だけを重んじるべきだと言われたら、それも違うだろうと思う。
肉体を繋いでくれた先祖がいないと経験そのものができないからだ。

しかし儒教のお話に出てくるような、厳粛な態度で先祖と向き合うべきと言われてもこれまた違和感を感じる。

 僕のルーツは母方が中国山地の山奥で代々農業を続けてきた農民だ。
父方はこれまた愛媛県の農家であったらしく、祖父が難病を患って瀬戸内海の離島へ引っ越した時に分家を起こした。
そこで生まれ育った父が広島市内の飲食店で働いていた母に惚れて結婚し、僕が生まれたのだった。

 このようなことから、先祖は英雄でも近づきがたい神様のような存在でもなく、今生きている私たちから顏が見えない、知らないだけで、語られないドラマを持った同じ一人の「ニンゲン」なのだ。

このような関係が人類誕生から数百世代、地球上のあらゆる場所で連綿と受け継がれているのだからまさしく奇跡という他ない。
さらに言えばオスとメス、2つの性別を持つあらゆる動物が同じ関係と時間を経て今この瞬間地球に生きているのだから。

 「私たちはどこから来たのか」
 この問いに確固とした答えは無い。
大きな織物の中で縦糸と横糸が合わさり、一瞬生まれて消える模様こそ「いきる」ことであり、そこに問いの答えが見え隠れしているのではないだろうか。


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