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「あるがまま」をそのまま経験するとはどういうことか

昨日は鏑射寺で貴重な体験をしてきましたが、それはまた後日報告いたします。

さぁ私のゆったりウィークは今日で最後です。明日から一旦忙しくなります。

今朝うれしい報告があり、

そのあとから瞑想して本を読んでを繰り返していると、(昨日お寺で感じた感覚を瞑想でなじませるためにも!)

そうそうそう!と唸る文章が書かれていました。

他にもそういうタイミング何度もあったのですが、「これはnoteに書こう!」と感じた今この瞬間に従ってシェアしたいと思います。

『エブリデイ禅』(シャーロット・浄光・ベック 著)から抜粋。

多くの人は、「自己中心的な人生がうまくいかないのなら、自己中心的でなくなろう」と考えます。
宗教的実践(残念ですが、いくつかの禅の修行も)のほとんどは、自己中心的でなくなることを教えています。

欲深い自分や心の狭い自分を知ったあとで、親切な人になろうとしたり、いい人になろうとしたり、我慢強くなろうとしたりするのです。

罪悪感はこういった欲望があるために存在するのですが、これはある種、幼子のようです。

自分のあるべきイメージを達成できないとき、私たちは罪悪感をもちます。理想を実現できないとき罪悪感が生まれ、失意に沈むのです。

修行の最中、私たちは「理想」「あるがまま」の間で揺れ動いています。

宗教的修行の多くは、悪いことをしたり考えたりしない「善き人々」を生み出そうというような間違った目的をもっています。

このような考えは、ある種の傲慢さや自己正当化に人を導いていきます。

もし自分が正しいことをしていると思い込んでいたら、他の人々はどうして正しいことをしないのかと、避難したりするのです。

罪悪感の中には多くの傲慢さが潜んでいます。

それでも、人は良くなろうとして、多大な努力をしています。ある人がこう話すのを聞きました。

「坐禅が終わって、高速道路を走っていたら他の車が割り込んできたの。そのとき怒ってしまったわ。自分はなんてダメなのかしら!

誰もがこれと同じようなことをしています。

わかりますか、
欲することのすべて、
特に特定の方向を望む場合は、

「もし完全であれば、もし理解していれば、もし悟ることができれば、その恐怖にうまく対処できるだろう」というように、エゴや恐怖が中心にあるのです。
そこに欲望があることがわかりますか?

あるがままから離れて、理想へ向かっていこうとする激しい欲望があるのです。

ある人は悟りについて興味がありませんが、「自分の夫や妻に大声を上げてはいけない」と考えているかもしれません。当然、夫や妻に大声を上げるべきではありませんが、そのような人になろうとする努力は、ただ緊張を増すことにもなるのです。

ではどうしたらいいか。

まず、「イライラしてはいけない」と言う代わりに、苛立っている自分を観察します。

一歩退いて、苛立っているその瞬間の真実を知るのです。

そして、まさに今苛立ちを感じている感情をそのまま経験することです。

これができれば、こうあるべきという二元的見方は消えていき、あるがままの自分に戻っていきます。

自分自身をあるがままに経験できれば、苛立ちはおのずから解決されていくのです。

これこそが!Lokoで教えている内観です。

私たちは、災難や苦痛から逃げるために、あらゆる努力をしています。
罪の意識を感じることさえ逃避なのです。

いかなる瞬間にも、あるがままの自分でいることです。それはつまり、自分が攻撃的になっているときは、その状態をそのまま経験することを意味します。

あるがままってそういうこと。

理想を求めて抑制するでも

自己中心的にやつ当たりするのでもない。

ただ自分の中で起こっていることをそのまま経験すること。

そのあと自分の行動すべきことが自ずとわかる。

多くの人が、無意識からくるあらゆる思い込みや過去の経験から、あるがままをそのまま感じることが非常にむずかしくなっています。

Lokoのオリジナルセッションでは、あるがままを経験するためのサポートをさせていただいております。


本は真理を知るためにおすすめです。

知識として知ったとしても、
何か思い込みやブロックが強い場合は、
実践することがむずかしい。

Lokoのオリジナルセッションは、知識ではなく「あるがまま」を体感したい方におすすめです。


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