古典的名著を読む前に、既存の教養を確認する(3)

前回、ちょっと舌っ足らずであったところを補足したい。

既存の教養を確認するには、高校卒業レベルを目指すのを一つの目標にするとよく、それはセンター試験や新共通テストレベルの教養を手に入れるということだと述べた。

これは、センター試験や新共通テストの問題が解けるようになることを意味しているのではない。
もちろん解けてもいいのだが。

私が言っているのは、要求される知識の範囲や理解度のことである。
大学受験を経験した人たちは、たかがセンター試験か、たかが新共通テストかとナメてかかるかもしれない。
だが、あの内容を本気で理解しようと思ったら、なかなか簡単ではない。

新共通テストはまだ一回しか実施されていない。膨大な蓄積があるセンター試験を使うのがよいだろう。センター試験の過去問は、解説つきの過去問集が、20年分以上収録されていて1科目1000円でおつりがくる。古本ならばそれこそ二束三文だ。

まず、教科書を読む。一通り読み終わったら、教科書を調べながら、時間無制限でセンター試験をといてみる。採点してみて、間違えたところの解説を読み、教科書で調べなおす。確かに教科書に書いてある知識で解けるのだが、理解していないと解けないようになっていたりする。一人で教科書を読んでいると、どこがわかっていてどこがわかっていないのか、自分ではなかなか認識できないが、これをやると一発なのだ。

もちろん教科書だって完璧ではないし、センター試験の解説だって完璧ではない。それ以外の参考書をみてみることになる。
この時点で、優れた参考書とダメな参考書の区別が以前より格段にはっきりつけられるようになっていることに気づくはずだ。
試験テクニックを前面に押し出しているようなものは論外(国語の現代文に多い)。試験にでるところを試験に出るような形でしか説明していないようなものも論外。
だが、本質的な理解へと導いてくれるような参考書、参考書の名著というべきものがどの教科にも存在する。そういうものに出会ったことのない人にはピンと来ないかもしれないが、感動するほど素晴らしい参考書があるのだ。

そういった参考書の名著に出会ってしまったならば、もはやセンター試験にとらわれる必要もない。
そのほかの大学受験の問題にも取り組んでみていいのではないだろうか。

どうせやるなら、すべての科目をやってほしい。
ある時点で、複数の科目がつながって見えてくる瞬間がおとずれる。やがて、全科目が一つの知の総体に見えてくるようになる。それがこの時代の「教養」である。

大学入試の問題は落とすためのものだ、とはよく言われる。入試では本質的な学力や教養なんか測ることができない、という見解を含意しており、だから本質的なことなんかやらなくてよいのだ、テクニックでさっさと合格してしまえという言い訳のために使われるフレーズである。

本当かなあと思う。だとしたら、大学の先生たちの問題意識がなぜあんなにも反映されているのか?

そんなことを考えるようになったら、高校レベルは卒業と思ってよい。
大学の教科書を読むべき時であり、古典的名著に手を伸ばすべき時でもある。

どんな古典的名著に手を伸ばすべきかは、もう自分でわかっているはずなのである。



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