古典的名著を読む前に、既存の教養を確認する

ここまで、古典的名著を読む意義について述べてきた。
古典的名著は、文明や社会の基盤となっている価値観が語られている本だ。

さまざまな文物について、その文明なり社会なりの基盤となっている価値観に基づいて体系的にまとめたものを教養といい、その教養を身につけ、それに従って、あるいは用いて生活している人を教養人という。

その文明なり社会なりが成立するに際して、古典的名著は解釈され、社会が安定してくるとそれが教育機関で教えられるようにダイジェスト版(つまり教科書や参考書)が作成され、原典は読まれなくなっていくことがままある。少なくとも近代社会においてはそうだ。

その、近代社会において忘れられがちな古典的名著を読もうというのが私の主張だが、その前に、ダイジェスト版の方を見ておいた方がいいと考える。

まず、ダイジェスト版には、ブックガイドの機能がある。
そもそも誰が科学を作ったのか?民主主義は誰がどうやって考案してどのように実行に移されたのか? それはどの本に書いてあるのか? 
そういうことは全部ダイジェスト版に書いてある。ほとんど誰も元ネタを手に取って読まないけれど。
学生時代、丸暗記しただけで済ませたつもりになっていたそのページに、脱教育、脱洗脳の鍵がちりばめられているのである。

本来、ダイジェスト版の役割は原典を見なくてもその内容を簡単に把握できるようにするためだ。しかし、古典的名著のダイジェスト版の場合、その文明なり社会なりを成立させ、運営していくにあたって面倒なところは削ったり改変したりしたくなる。わかりにくいところは単純化させ、エグいことが書いてあるならばそこは無視して、ダイジェスト版を作成する。

ならばそんなもの見ないほうがいいのではないか? ブックガイドがわりに人名と書名だけ確認して、中身はそんなに大切に読まなくてもいいのではないか?

いや、そうは思わない。

そもそも私たちは近代社会にうまれ、すでに近代社会の中で育ってその教育を受けてしまっている。古典的名著を読む理由が前回述べたとおり脱教育、脱洗脳にあるのならば、自分が受けてきた教育をチェックしなおすところから始めたほうがよい。

近代社会においては、教養は公教育で一律的に与えられ、試験という一律的なもので測られる。だから、教科書を試験の内容を検討することになる。

古典的名誉と呼ばれる書籍の大半には、強靭な思想が記述されているが、それを刈り込んで教科書にしたものも、世の中を動かしている知的体系だけあって、それなりに強靭なものが秘められている。いいか悪いかは別にして(それは個々人が判断することであろう)。

小中高の教科書は、「教養」をうまくパッケージ化してある。
大学受験参考書になると、単なるパッケージ化におさまらないものがでてくる。「教養」の中身に懐疑的なものがチラホラ出てくるのだ。
大学入試の問題となるともっとその傾向が強くなる。大学教員の問題意識があらわれることが多いからだ。

しかし、ここで注意して考えておきたい。
「教養」は、現体制の基盤となる知の体系であるから保守的な面も含むが、体制を維持するための変革も「教養」の中身であるゆえ、革新的なものも含む。

現体制を根こそぎひっくり返してしまうような主張はほぼありえない。
そういう過激な思想も飲み込んで、骨を抜き、キバを折り、トゲを抜いて「教養」の一部に溶かし込んでしまう。
それができないようではそもそも文明や社会を担えない。

だからこそ、のほほんと古典的名著を読むわけにはいかないのだ。以前書いた通り、「あー、そういえば受験で暗記したっけな。ほんとだ書いてある書いてある」で終わってしまいかねない。
現体制の「教養」を確認した上で古典的名著を読むのだ。
そうすれば、古典的名著のどこを刈り込み、どこを無視し、どこを改変してダイジェスト版にしているのかを確認することによって、両者の違いがはっきりする。

そうするならば、古典的名著を読み、本当はそこに何が書かれているのか知ったあと、それを社会の中でどう使っていけばいいか考える材料にもなる。

社会の変革期に、その変革を担った人たちの伝記を読むのが好きだ。
彼らは旧体制の教養を完全に身につけ、その中でも十分にやっていけるだけの力を持ちつつ、その社会を変革し、次の体制を作っていった。
これについてはまたいつか記事を書きたい。



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