変わることを恐れるのは…

「変わることを恐れるのは、小さくて狭量な精神である。偉大さのしるしは、人が時として自分が間違いを犯していたと率直に認め、それゆえ、変わらなくてはならなかったと進んで認めることができる点にある。」
『ロイドジョンズ ローマ書講解7:1~8:4 律法の役割と限界』[14. 14-25節への序論]
(D・M・ロイドジョンズ 著 渡部謙一 訳 いのちのことば社)より

ヒッポのアウグスティヌスがローマ書7章14-25節の人物がどのような人物であるのかということに対して、「新生していない者」という見解から「新生した者」と見解を変えたこと、ゆえにそのことが偉大さの一つの目印である、と語っているところです。
誤解してならないのは、「変わる」というのは聖書の真理から外れてしまうことではないこと、真理に対して妥協するようなことでないことです。よく知られている通り、アウグスティヌスは、聖書の真理に堅く立った人物でした。
自分が聖書の真理であると思い込んでいたことについて、自分の見解が聖書が語っている見解であると思い込んでいたことについて、そうではなかった、自分は間違っていた、と認めること、それは特に教師たちにとってはより困難なことであると思います。
その困難さをよく知っていたマーティン・ロイドジョンズの言葉です。
そして、ロイドジョンズ博士もまさに、その面で偉大な人物と言えると思います。

ちなみにローマ書7章14-25節の人物については、偉大なアウグスティヌスもジャン・カルヴァンも、ピューリタンの博士たちも、「新生した人」という見解をとっていますが、マーティン・ロイドジョンズは異なる見解を示しており、この書簡を書いた時点での使徒パウロ自身ではないこと、また「新生した人でも新生していない人でもなく、その中間にいる人」であると説明しています。
律法が霊的なものであると悟り、律法によって罪を自覚しつつ、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(24節) と叫んでいることから、イエス・キリストをまだ知らない人であるためです。次の25節前半「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」は、パウロの迸りであるということです。
ローマ書7章の主要点は、律法にはできないことについてであり、律法の行ないによって義認や聖化を得ることができるかのような考え方に対して、そのようなことは不可能であることを証明しているのだ、と、ロイドジョンズ博士は綿密な講解によって説明しています。

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