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グレーバーの訃報を受けて。

今朝、起き抜けにデヴィッド・グレーバーの訃報を見かけた。あまりにも寝起きすぎて意味がわからなかったため、「David Graeber」をTwitterで検索し、ひととおり目を通した。

Wikipediaの生年月日も「February 12, 1961 – September 2, 2020」になっている。本当に亡くなっていたのだ。

直接本人に会ったこともなければ、講演会にも行ったこともない。大学の授業で彼の本を輪読して、記事を読んで、少し前に動画で見かけただけだった。でも、すごく好きな研究者だった。なんならいつかどこかで会えるだろうと思っていた。

世界中で感染症が猛威を振るう5月にデヴィッド・グレーバーがインタビューに応え、今のこの状況に対して真摯に取り組んでいたことは誰もが知っている。

グレーバーといえば、「クソどうでもいい仕事(Bullshit Jobs)」の話だ。
感染症が拡大する現在、実質の仕事時間がこれまでの半分以下になった人や在宅勤務になり自由な時間が増えた人がいる。他方で、スーパーマーケットの店員や医療従事者たちは働きづめになった。

人びとが生きていくには、派手なパワポを作ってプレゼンをする仕事が必要なのではない。
それよりも、スーパーで品物を並べたりレジを打ったりする仕事、ゴミを回収する仕事、病気の人に直接手当てをする仕事の方が必要だ。
しかし、人びとが生きていくために最低限必要な仕事に従事している人たちに支払われる賃料は、「クソどうでもいい仕事」をしている人たちより格段に安い。


つい先日、この「クソどうでもいい仕事(Bullshit Jobs)」についてのグレーバーの著作の邦訳が刊行された。

人びとが生活するなかで本当に必要な仕事とはなんなんだろうか。

グレーバーは5月のインタビューで次のように語っていた。

現在の状況は私たちにとってこのようなことがどれだけ無駄かに気づき、変わるための良い機会だと思うのです。経済とは何かをもう一度考え直すべきだ。

人類学者であり、活動家であったデヴィッド・グレーバーは現代の世界に大きな問いを投げかけ、この世から去った。私たちはこの問いかけに対してどのように応えられるだろうか。これからも、クソどうでもいい仕事を増やしていくのか。それとも、無駄に気づき変化していくのだろうか。

アナーキーでパワフルでかっこよかった。
尊敬すべき偉大な人類学者だ。私は読了できていない『負債論』にもう一度取り組むべきなのかもしれない。ご冥福をお祈りしている。

それにしても、今日はこのことで半日以上心がどこかに行っていて、空き缶のようだった。

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