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21歳、雪を食う

雪が好きだ。多分、全世界の人間で上位20%に入るくらいには好きだ。

新垣結衣は『降る雪が全部メルティー・キッスならいい』と述べているがその論理はひどく誤謬をはらんでいる。降る雪は降る雪だからいいのだ。他の何にも代替されようのない素晴らしい気象現象なのである。そもそもメルティーキッス『なら』ってなんだ。新垣雪嫌いなんか。雪いいだろ。百歩譲って『降る雪は雪ですごくいいし、降る雪とは別にメルティー・キッスが降ってきたらそれはそれでいいかもしれない』って言え。


雪のことはずっと好きだが、雪遊びはほとんどしたことがなかった。
地元は雪が少なかったけれど、2~3年に1回くらいまあまあ積もる日があった。雪の日は皆少しソワソワしていて、担任も少しだけ優しくなり、10分早く授業を終わらせてくれたりした。小学生はこぞって校庭に飛び出し、皆で雪だるま作りや雪合戦に勤しんでいた。しかし、当時見た目は子ども頭脳はひねくれおじいさんであった私はそんな友人達を横目に(やれやれ、若い子は元気で良いナァ…)といった顔をしていた。愚かな小学生である。
教室が殆ど空になった状態の中、私と友人1人と担任だけが残っていて、校庭の様子を上から俯瞰したり、何事もなかったかのように学級文庫を読んだりしていた。当時の私は学級文庫を完全読破することを人生における唯一の目標として定めており、雪で遊ぶことよりも本を読み進めることの方が有意義であると考えていたのだ。加えて私は無邪気に雪遊びをすることにある種の羞恥のような感情を抱いていた。たいへん愚かな小学生である。

そんな子どもだったので、私はこれまでの人生でちゃんとした雪だるまも作ったことがないし、雪合戦もしたことがない。だから多分、成人した今でも雪遊びに未練があるのだと思う。

大学生になり、京都で下宿を始めた。京都は期待していたほど雪の降る土地ではなかったが、年に数回はちゃんと雪が積もった。
そして私は小学生の頃から人間的に大いなる成長を遂げ、いらぬ羞恥心を捨て去ることに成功していた。私はいついかなる時でも誰にも気を遣わず外出できるという一人暮らしの特権を存分に活かし、深夜1時頃に家の周りをぐるぐると徘徊し思う存分足跡をつけ、家の前に小さな雪だるまもどきを大量発生させるという奇行に出たりして、雪の日を思う存分楽しんだ。

雪を踏むという行為はきわめて高尚なものである。まっさらなキャンバスに初めて色を乗せるときのような、罪悪感とも高揚感とも言えない多層的な心持ちになる。
雪の積もった道を歩くとき、私は神妙な面持ちとにやにやした気色の悪い笑みを交互に繰り返している。雪の深夜に変な表情で変な行動を繰り返している者がいたら私だと思ってくれて構わない。

それにしても今日は本当にいい日だった。教室で勉強していたら1人が『ゆきだ』と言って窓を開け、皆で駆け寄って、雪見て、別の2人が外に駆け出してって(中学生かよ)雪持って帰ってきて(小学生かよ)たまたま教室にあったブルーハワイシロップかけてほんの少し掬って食べた(保育園児かよ)。
そもそも『たまたま教室にブルーハワイシロップがある』という状況特殊すぎるな。

雪を食うだなんてとても齢21とは思えないけしからぬ所業であるが、私的『人生においてやりたいこと100』のリスト項目に入っていたのでこれは致し方ないのだ。美味しかったし。私はもう大人なので、自己責任で雪を食うことが可能なのである。多少の健康被害を引き換えにでっかい夢を買ったと思えば痛くも痒くもない。ちなみに腹はちゃんと痛い。


誰かが窓を開けて『ゆき、』と言うときの胸の高鳴りったらない。
雪が降ると人と話したくなる。『降ってる』とか『たのしい』とかその程度の会話でいい。ただこの感情を共有したくなる。んで、雪を一緒に見る相手は大抵私の好きな人だ。恋愛とかではなくても、その時凄く好きな人なのだ。何故か。小4のときの担任も、雪の中一緒に下校した近所の友達も、初めて行ったスキーで滑り方を教えてくれた人も、今日一緒にいた人達も。

一緒に雪を見たい相手がいるということは、思った以上に尊いことなのかもしれない。


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