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#11 銀河の犬と水玉~曼珠沙華の伝言~


第7章 職業選択の自由アハハン

職ジプシー

 それから私は事務をしてみたり、テレフォンオペレーターをしてみたり、飲食店で働いてみたり、バイトをしていたが、相変わらずツアーの度に仕事を辞め、ツアーは全国各地全て行き、終わったらがむしゃらに働いて次のツアーの資金を貯めるというループにハマっていた。
 若い内は高卒でも仕事は沢山あるのだった。
 いつも次を決めずに辞めるけれど、結構早く次は見つかるのだった。
 そして時代はCDに完全移行して、レコードなど置かれなくなった頃、私はまたしても音楽販売の卸売りの会社に入ってみたり、東京で有名なオシャレなCD屋が地元に出来ると知って、バイトで入ったりした。
 けれど、オシャレなお店たちは、担当分けが決まりだった。
 私は1人のお客様に接客をしたら、そのままレジを打ちお見送りまでしたいタイプだった。
 しかしレジ係という、レジ担当者が存在し、レジ前までの案内しか出来ないようになったのだった。
 つまらない。
 接客の醍醐味がない。
 それが効率化ということなのだろうか…
 そして同じく分担化されたオシャレな系列の店が近くに出店することになり、潰し合いにならないように、こちらが終了する事になり、移転したい人は行けると言われたが、そこは更に休みが何曜日と決められるシフトだった為に、ライブへ行きたい私には合わず、それを最後に音楽のお仕事からは離れた。

 次に服屋を転々と回ったものの、どうもアパレル業界のいけ好かない感じが肌に合わないのと、
 昔はオシャレだったのに……というお店が尽く迷走して酷いデザインへと変わっていった。
 お世辞にも可愛いともオシャレとも言えない服を売らねばならない事が苦痛で仕方なかった。
 自分が良いと思わない、むしろ、不要だと感じているものを人様にアピールして売る事は、もはや詐欺行為のようにも思えて胸が痛いのだった。
 きっと向いていなかったのだと思う。

もう工場の炎の中で働くよ

 という歌詞の推しの曲があり、私はそれを実現する為だけに工場で働いてみたいと思っていた。
 作業服を着てみたかったのだ。
 年齢的にももう若者のお店に立つには限界だなと思い、また事務に戻り、派遣に登録をして工場も勤務してみた所、アパレルのようないけ好かない休み時間の会話を聞くことも無く、人間関係のめんどくさいやり取りもなく、ただただ黙々と作業をしている時は向いてると思った。
 しかし大きな会社になるとやはり沢山の人がいて、沢山の人がいる所は大抵とんでもなく性格悪いやつやタチの悪い奴が必ずいて、嫌な思いをする日々だった。
 私は仕事をいい加減にやったりはしなかったが、生き甲斐ではなかったので、あくまでもライブへ行く為の資金作りだった。なので、身体が辛くとも残業も休日出勤も喜んでやったし、掛け持ちでバイトした事もあった。
 時給と、ライブの日に休める環境があるかにかかっていた。
 短期の派遣を渡り歩き、いつしか自分の年齢よりも多くの職場を巡っていた。
 40箇所以上の勤務先を体験して思うのは、半分以上はブラック企業だった。
 辞めたくなかった、などと思った所は一つも無かったので特に深い想い入れもなく、サクサクと移れた。

やりがいを求めて

 一番酷かったのは症状を自覚していないから、言われても意味がわからなかった動物病院勤務の時だと思う。
 小学生の頃、チムが病気で亡くなり、将来の夢は獣医さんだった時があった。
 しかし同級生に「獣医ってすっげー頭良い東大出るような人しかなれないんだぞ。知ってんのか。」と言われて「それは無理だな」と瞬時に諦め、動物に関われる仕事がいいな、と曖昧なゴールを設立させたのだった。
 それから何十年も経ち、ブラック企業を渡り歩いていると「こんなことしてていいのか?やり甲斐のある仕事をやってみたい」と思うようになり、どうして良いかわからずにとりあえず、動物看護師とアニマルセラピーの通信講座を受験し資格を取ったものの、そんな机上の知識は何の役にも立たず、ましてや病院に必要な器具の使い方や名前や点滴のやり方すらも通信講座には無かったのだ。
 それこそただの無駄金と無駄な時間を使って何の役にも立たない資格の賞状を貰っただけだった。
 初めての職種で、本当に自分がここまで向いてないとは思わなかったと、激しく挫折して研修期間で辞めることを決意したものの、それはまさしく症状が始まっていたせいだったのだと、数年後にわかる事になった。
 そしてあの時さっさと辞めて本当に良かったと思った。
 なぜなら命を扱う仕事だったから。
 物と違って「失敗しました」は命の危険が付きまとうものだからだった。
 「まだこれからだ!頑張ろう!」なんて根性見せていたら、とんでもなく迷惑をかけて動物の命を危険にさらしていた事だろう。

揺らぐやりがい

 その時の決断にもジュビ子が関わっていた。
 ある日仕事から帰るといつもは家の中にいるのに、風が強くてまだ寒いのに外で立ったまま微動だにせずに私を待っていたようだった。
 車から降りる時に既にその様子のおかしさには気づいていた。
 目を細めて石になったように固まったまま震えて必死に何かを訴えてるようだった。
 慌てて駆け寄り、ただいまの儀式も出来そうにないジュビ子を抱えて家に入った。
 何があったのかと両親にきくと、急に動かなくなって目を細めて何か痛いのかと思って体を触ろうとすると唸って怒って近づかせてくれないのだ、と。
 アンタのこと待ってるみたいで外に出てってずっと門を見て待っていた。と。
 離れた市から帰宅した頃にはもうどこの動物病院もやってない。
 慌てて先生に電話して事情を話すと、「腰が痛いのでは?」という事で、診察してないから何とも言えないけど、その状態で車に乗せてこの距離を移動させるのはかわいそうだから(きっと激痛なはず)薬だけ取りに来るなら応急処置で出してあげるけどどうする?と。
 慌てて20kmの距離を戻り、薬を貰い、また帰宅した。
 ジュビ子には、
 薬を貰ってくるからね。痛いの治すからね、待っててね。すぐに帰るからお家の中で待っててね。
 と言って出たので、部屋で待っててくれる事を願って、赤信号の度に信号を張り倒したい気持ちでいっぱいになりながら、急いで帰ってきた。
 ジュビ子は涙目で「助けて」という顔をしたまま立っている事も限界になったらしく倒れるように伏せた姿で苦しそうに声も発せずにただただ堪えていた。
 何とか薬を飲ませて様子を見ていると30分位で表情はやわらぎ、1時間後には動けるようになっていた。

 翌日はいつもの病院に診察に行ってからの出勤でいいと言われていて、そうさせて貰った。
 レントゲンを撮り、小さく白い物が見えて、これが尿管結石なのか違うのか、何とも判断しにくいところ。
 様子をみて。ということになり、飲み薬を頂いた。
 私は何をやっているのか。
 可愛いジュビ子に何かあっても知識があれば助けてあげられるし……なんて始めたのに、遅くまで働いて帰宅して、その間に苦しいまま堪えてるジュビ子を待たせてるだけか?
 受付をしているだけで「知識があり対応出来る」立場な訳でもなく。
 ジュビ子が、ただ一緒にいて欲しいと望んだその瞬間さえも一緒にいてあげられない仕事を選んでいいのか?
 あの苦しそうな「助けて」の顔は、生涯忘れられずに胸を締め付ける。
 今の私の仕事は誰でも代わりが出来るけど、ジュビ子には私しかいないのに。
 私の子供であり親であり姉妹であり家族であり相棒であり、代わりのいないかけがえのない特別な犬なのだ。
 と思った時に間違いなく

 やりがい  <  ジュビ子

 の文字は大きく見えていたのだった。

 またしてもジュビ子が身体をはって私の本当の願いを知らせてくれたのかと感じる。
 何事にも体を張って命懸けで飼い主を動かすのが犬であり猫である。
 彼等は命懸けで生きている。
 何をするにも命懸けなのだ。
 それほどカッコよくて愛しい動物がいるだろうか……
 だから愛さずにはいられないのだ。

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