映像表現における"しょうがない"の境界線について「アルプススタンドのはしの方」から考えてみた
青春映画の佳作「アルプススタンドのはしの方」。
封切日の初回に鑑賞してから、ずーっとモヤモヤしてました。
作品そのものは素晴らしいし、咎めるのが本意ではないのだけど、そろそろ終映していっているので記録しておきたいと思います。
「アルプススタンドのはしの方」はどんな映画か
(解説)
第63回全国高等学校演劇大会で最優秀賞に輝いた、兵庫県立東播磨高等学校演劇部による戯曲が原作の青春ドラマ。野球を観戦している少年少女たちに交差する思いを、波乱に富んだ試合の展開と重ねて描く。監督は『性の劇薬』などの城定秀夫。『ういらぶ。』などの小野莉奈、『36.8°C サンジュウロクドハチブ』などの平井亜門、『そうして私たちはプールに金魚を、』などの西本まりんのほか、中村守里、黒木ひかり、平井珠生、山川琉華らが出演する。
(あらすじ)
高校野球、夏の甲子園大会。夢破れた演劇部員の安田(小野莉奈)と田宮(西本まりん)、遅れてやってきた元野球部の藤野(平井亜門)、成績優秀な帰宅部女子の宮下(中村守里)が、アルプススタンドの隅で白熱する1回戦を見つめていた。どこかぎくしゃくしている仲の安田と田宮、テストで学年1位の座を吹奏楽部部長・久住(黒木ひかり)に奪われてしまった宮下、野球に未練があるのか不満そうな藤野。試合の行方が二転三転するに従って、彼らが抱えるさまざまな思いも熱を帯びていく。
Yahoo!映画 より
ええ、いい作品です
正直、いまだ演劇アレルギーがあって、テイストそのものははあまり好みではないのだけど、キャストはみんな魅力的だし、それぞれの立ち位置でそれぞれが抱えてる思いや悩み、苦しみをほんの少しずつ消化させていきます。
試合シーンが無いのに白熱感が伝わってくる演出、80分足らずの尺でうまくまとめておられます。
主演の小野莉奈さんが際立って良しで、最近の若手女優陣はいい役者が揃ってきてるので、いっときのあちらこちらで二階堂ふみ!というようなことにはならなさそうですね。
これぞ青春映画!という煌めきが、あちらこちらで感じられます。
これ、どこの話だっけ
ただ、ただね。。。甲子園が舞台のこの作品、関西人の私から見ると
どっからどう見ても「甲子園」で熱戦してるように見えないんですよ!!!!!
本当の甲子園アルプススタンドはこんな感じです。
Googleストリードビューでは位置を変えて見れます。すごい時代です。
本編の感じがこちら(予告編からキャプチャー引用しています)
ぜんっぜん違う!!!!
ワンシチュエーションなので始末が悪く、劇中で出てくるスタンド下の回廊や、バックに写ってる木々も含めて全てのシーンでぜんっぜん違う!のでどうしても素直に入り込めん。
前述のように、とてもいい作品なだけに、余計にとてもとても「残念」だし、しょうもない作品なら「甲子園ちゃうやんけ」で終わってたと思います。いい作品だからこそ、ちょっと考えてこんでしまいました。
舞台か背景か
とはいえ、こんなの今に始まったこっちゃありません。
東京の話だけどロケ地が埼玉、なんてことはいくらでもあるだろうし、恐竜が現代に蘇って闊歩する島や、スカルアイランドはハワイロケ。ルークが黄昏れてるのは遠い彼方の砂漠の惑星ではなくて、チュニジアですしね。
これらは何も感じないのに、今回なんでこんなに違和感を感じているのかと自問自答してみたのですが、甲子園を知ってるから、というのももちろんなんですが、見えてくる情報が、物語の「舞台」なのか、単なる「背景」なのか、というところでしょうか。
東京の話なのに、後ろに通天閣が映ってたらさすがにどうかと思うけど、たとえば住宅地の場合は別にどこでも良いですね。見たことのあるハワイっぽい山並で恐竜が闊歩してても、ダイヤモンドマウンテンが映ってなければ、普通の人にはジャングルがどこかなんて特定できません。
でも、今回の場合はあくまで「甲子園」が話のキモになってて、最後のオチとなるエピソードは、舞台が高校最後の甲子園でなければ成り立たない話でもあります。
登場人物たちは、ここが甲子園かどうかをぼやかす事もないどころか、これは甲子園での話である!ということを示唆するセリフも随時出てきます。
映像作品に求めているもの
この話はもともと演劇だそう。
ちなみに、こちらが舞台版の画像だそうで、なんだかこちらの方がリアルにすら見えます。
(引用元:https://spice.eplus.jp/articles/243789)
演劇の場合、観客はそこが現実のものではないのが分かってるので、書き割りやセットを現実のものと「脳内変換」して楽しみます。ミュージカルのライオンキングなんか、どっからどうみてもライオンじゃないけど、それはそれで楽しみますよね。
でも、トリアーの「ドッグヴィル」のような手法をとるのなら別ですが、普通の映像作品の場合、多くの観客はそう思っていません。
(↓ちなみに「ドッグヴィル」の舞台。映画作品では珍しいアプローチ。)
劇映画の場合、あくまで「現実に寄り添った視覚化」を多くの観客は前提として心構えをしています。
にも関わらず、おそらく多くの観客が現実と全く違うと思うであろうと分かっているのに、「ここは甲子園ですよ」として突き通す事は、観客に「無理な脳内変換」を求めないと成立しない作品であるということになります。
他に方法があったのでは
予算や許諾の問題で甲子園ロケが出来なかった事はよく分かりますし、それは仕方がありません。
しかし、であれば「舞台」設定をなぜ変えなかったのか疑問が残ります。
映画化にあたって、「舞台」を地方大会の決勝にするチョイスもあったと思うし、オチも工夫して原作趣旨を損なわないように改変する事は可能だったはず。
厳しい言い方になってしまいますが、制作側の「甘え」がなかったでしょうか。もっと言えば、映像化へあたっての「こだわり」がもう少し欲しかった。
ただ、制作陣もいろいろ考えてそのチョイスをしなかったのだろうと思いますし、それはそれでリスペクトはします。
あくまで「私的境界線」ですが、これを許容してはいけない気がする
もちろん人によって「こだわり」のラインも違うこともわかっています。
ただ、制約があるとか予算がないとかの問題がいくらあったとしても、このような「脳内変換前提」の制作姿勢を許容していたら、どんどん邦画界がダメになっていくような気がしてなりません。
何度も言いますが、作品そのものを咎めているのではありません。
本質的には素晴らしい作品と思いますし、甲子園に見えないなんぞどうでもいいと思う人も多いでしょう。ネットを見回しても、ここを追及している方々も多くはありません。
ただ、このような映像表現を無批判に受け入れてしまっていては、私たちの「許容ライン」がどんどんと下がっていき、引きずられるように全体のクオリティラインが引き下げられていくのが怖いです。
「日本映画ってそんなもんじゃん」「低予算なんだからしょうがないよ」となることが。
特にこの作品では、なにごとも「しょうがない」と諦めることの是非がテーマのひとつなのだから。
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