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4. 教室のルールとか関係ない

ところで、前回述べた<追放>の両義性に関して、俺は興味深い事実を知っている。

それは国語教育学という変な学問領域では、この「誰もが好き勝手なやり方で本を読める/話を聞ける」という当たり前のことに<読みのアナーキー>なる大仰な名前がつけられ、あまつさえ抑止可能なものとして考えられているということである。

俺は大抵のことについて門外漢なので、国語教育学についてもあまり口出しすまいと思っていたのだが、しかし、そもそもド素人の門外漢が口出ししてはならないというようなルールは、門の中の人たちが気持ちよく過ごすために勝手に作ったものなのだから、俺には全然関係がない。

教員の鎌田首治郎は、氏の論文「イーザーの読者論再考―読むことの基礎理論として何を導き出すのか―」の中で、

①『行為としての読書/美的作用の理論』におけるヴォルフガング・イーザーの読者・読書観が<読者による好き勝手な意味の創造>を認めるものではないこと

②その点(=<読者による好き勝手な意味の創造>を認めるものではないこと)が批評理論家たちから批判されまくったこと
**
③その批判が批評理論の文脈では道理に適っていること**

を順に確認していったうえで、以下のように述べている。

文学批評理論の文脈におけるこの批判は首肯できる。個別で主観的な行為である読むことに、規範意識の名においてであっても、他者である誰かが立ち入れば、それは個人の読みの主権に対する干渉となる。そもそも、規範意識の枠に収まりきらない毒を持った文学も存在できなくなる。それらをふまえた上で、しかし、教育の文脈では、異なりが生まれることも指摘しておかなければならない。何故なら、教育の文脈においては、子どもたちに「自己がこなごなにくだけ、散逸するというマゾヒスティックなスリル感」を教育することはないからである。そして、教育の文脈においては、イーザーの規範意識が、逆に子どもたちの自己形成を実現する上で重要な要素へと反転する可能性もあるからである。[鎌田首治郎「イーザーの読者論再考―読むことの基礎理論として何を導き出すのか―」(査読付)『広島大学大学院教育学研究科紀要』第二部 文化教育開発関連領域六二号(2013)]

まず基本的な部分について訂正しておかなければならない。

テリー・イーグルトンやスタンリー・フィッシュがイーザーを批判したのは、単純に、イーザーの願望丸出しの読者観が、読者たちの現実的様態と全然合致していなかったからであって、彼ら理論家たちが

個別で主観的な行為である読むことに、規範意識の名においてであっても、他者である誰かが立ち入れば、それは個人の読みの主権に対する干渉となる

というようなゴリゴリの道徳意識に毒されていたとか、あるいは

規範意識の枠に収まりきらない毒を持った文学

を存在させようというような野望を持っていたとか、

相対的により意味のある、より豊かで深い読みを生み出そう

というような謎の強迫観念に突き動かされていたとか、そういう気持ち悪い理由からでは断じてない。

イーザーの設定した読者像は読者の現実的様態と合致していない。

この点の論証のためには、たった一つの例を挙げれば足りる。

1905年に発表された訳詩集『海潮音』のなかで、翻訳者の上田敏は、ロバート・ブラウニングによる劇詩「ピパが通る」に対して、大幅な無化操作を行ったうえ、劇中の「ピパの歌」を「春の朝」として訳出、そのすぐあとで悪びれもせずに言っている。

ブラウニングの楽天説、既に二十歳の作「ポオリイン」に顕れ、「ピパ」の歌「神、そらにしろしめす、すべて世は事も無し」といふ句に綜合せられたれど、一生の述作皆人間終局の幸福を予言する点に於て一致し「アソランドオ」絶筆の結句に至るまで、彼は有神論、霊魂不滅説に信を失はざりき。[上田敏『定本 上田敏全集』第一巻(1978・上田敏全集刊行會)]

なお、補足しておくと、上田による無化操作によって消されたもののなかには殺されたルカ、ルカを殺害した妻オティマとその情夫ゼーバルト、悔悟によるゼーバルトの自殺と、その後を追ったオティマの自殺とが含まれている。

こうした事実を踏まえたうえでもう一度先の引用を読み直せば、どうか。ブラウニングがピパに言わせた「神、そらにしろしめす、すべて世は事も無し」 は、ブラウニング自身の楽天説を綜合したものと言えるだろうか?

また、妻とその情夫によって殺害されること、自殺すること、ないしブラウニングがそれを描くことは人間終局の幸福を予言したものと言えるだろうか?

さて、こうした読者の現実的様態に対して、イーザーが提出した読者・読書行為のモデルはどのようなものであったか。鎌田はその内容を以下のように要約している。

読者は、読書行為の中で、自分と「テクスト」との「空所」を自らの内面世界から補充し、意味の結合によって繋げたりして、自分の一貫した解釈を構成しようとする。しかし、時に読者は、「テクスト」に書かれていることと自身が組み立てた解釈との矛盾に気づかされる。「テクスト」によって、読者の解釈の一貫性が否定されるのである。しかしながら、この「テクスト」による「否定」によって、ますます読者は、解釈に熱中しなければならなくなる。「テクスト」を読み返し、思考を繰り返し、一貫した解釈の構成に挑戦を繰り返す中で、やがて決定的な「テクスト」と出会う。
このことを少し詳しく説明してみると次のようになる。読者は、一貫した解釈を構成できたつもりが、この「テクスト」によって、何度も自身の解釈に存在する一貫性の綻び、解釈の矛盾に直面させられる。やがて読者は、一貫した解釈を構成できない原因が自らの中にあることに思い至り、自分のものの見方・考え方、感じ方、準拠している価値観、規範、思考の枠組みを変革することによってしか、解釈の一貫性に辿り着けないということを自覚するに至る。それは、一貫した解釈を阻む自らのものの見方・考え方、感じ方等の狭さ、偏り、頑なさに直面し、これらを修正しない限り、一貫した解釈を構成することはできないという結論を、読者が自覚する瞬間、読むことによって読者が自らを変革させる機会の到来ともいえる。これが、読者が一貫して解釈を構成する挑戦を悉く否定する「テクスト」との出会いである。

――なるほど、つまり、鎌田のイーザー解釈によると、読者は「テクスト」による解釈の「否定」を受けて、なぜか本を放り出すのではなくますます「解釈に熱中」し、なぜか「一貫した解釈を構成できない原因」がテクストの中にではなく「自らの中にある」と思い込み、なぜかテクストのほうを尊重して「自分のものの見方・考え方、感じ方、準拠している価値観、規範、思考の枠組みを変革」しなければならない……と、こう考えるわけだ。

しかし、冷静になってよく考えて欲しい。少なくとも、ブラウニング読者としての上田敏はそんなこと全然していないのである。

彼がブラウニングの「ピパが通る」に対して行ったのはテクストの無化、および解釈に都合の良い部分の抽出であって、そこではテクストによる「否定」などというものは全然起こっていない。

「否定」されないのだから「解釈に熱中」もしないし、一貫した解釈は現に問題なく構成できているのだから「一貫した解釈を構成できない原因」を考えたりもしない。

仮に、万が一、「ピパの歌」の最後の部分に「※これはわたくしブラウニング自身の楽天説のストレートな表明ではございません!ピパの無知、無心さを表したものです!この点だけは絶対に誤解しないでください!よろしくお願いします!」と書いてあったとしても、上田敏がそれを(作為的にであれ、視野の狭隘さのためであれ)無化するのであれば、やっぱり「ピパの歌」はブラウニング自身の楽天説のストレートな表明である。

もちろん、イーザーの言ったようなことは、ある限定された世界の特殊な読者、ある限定された世界の特殊な読書行為としては十分に発生し得るし、なんなら例を挙げることだって難しくはないが、**しかし無限定な世界の読者一般、ないし無限定な世界の読書行為一般に共通して見られる普遍的な解釈プロセスであるとは、どうも言い難いようである。 **

だからこそ、フィッシュもイーグルトンも、イーザーの読者観を否定する。しかし彼らの批判は、鎌田が言うような「相対的により意味のある、より豊かで深い読みを生み出そうとする営み」として行われたわけではない。彼らは単に、理論家としての仕事――つまり、手前勝手な理念を創造するのではなく、世界から理論を発見すること――に対して忠実であったという、ただそれだけのことである。以上、基本的な訂正事項として、本題はここからである。

さて、今述べたように、理論家の仕事とは、世界から理論を発見することである。

一方、鎌田を含む教員、ないし教育学者たちの目的は理論家とは違う。彼らの目的は、世界の中に理論<‐である>を見出すことではなく、彼らが元々持っている、あるいは国家からもたらされた理念<‐べきである>の現実化に有用な言説を、どっかから適当に引っ張ってくることである。

ちなみに、この際、引っ張ってくる理論(厳密に言えば「言説」)が現実と合致しているかどうかということは全然問題にならない。

なぜなら、現今の教育システム自体がそもそも理念の下に恣意的に創造され、恣意的に維持されているものなのだから、マジでどうしても援用したい言説があるなら理念とか教育システムのほうを言説に合致するように作り変えればいいからである。

だから極端な話、教育学の文脈においては、フリードリヒ・シュライエルマハーもリチャード・ローティーもウンベルト・エーコもスタンリー・フィッシュも潜在的にはみんな正しい。理念の内容によって、彼らは正しくもなれるし、間違うこともできるわけだ。

で、ヴォルフガング・イーザーの言説。これは既存の理念、ないし理念の下に構築された教育システムの枠内で導入可能なので、非常にお手軽で都合が良い。無限定な世界の人々は本を読んだり読まなかったりするし、無限定な世界の読者はテクストによってたまに否定されたり、たまに否定されなかったりするが、少なくとも教室の中にいる子どもたちは、同じ時間、同じ場所で、同じ本を必ず読むのであり、好き勝手な解釈をすれば必ずテクストから「否定」される。

もっと具体的に言うと、教員の平手打ちや罵倒、クラスメイトからの冷笑によって、読者は解釈を「否定」される。「否定」されると、読者は誤読によって否応なく与えられる不利益(成績の低下、クラス内での仲間はずれを含む)を回避するため、ますます「解釈に熱中」せざるを得なくなる。

――と、こういった具合に、イーザーの言説の妄想めいた部分を暴力によって補完・現実化してあげれば、最低でも教室内の読者、授業中の読書行為については、イーザーの言説通りに事を運んで貰うことができる。だから国語教育学において、<読みのアナーキー>を抑止可能なものとして考えることは全く、なんの問題もない。鎌田はこうも言っている。

読みのアナーキーは、読んだことによって本文が消去され、以降の読みが読者内部においてのみ現象するために起きる。つまり「テクスト」による制約がないためにアナーキーと呼ばれる事態が起きる。読んだ途端に本文が消去されるロラン・バルトの「テクスト」論と異なり、イーザーの読者論においては本文が消去されることはない。そのために、読者の読みは「テクスト」による制限を受け、読みのアナーキーは生まれない。
読むことに正解はない。しかし、誤読は存在する。教室内において、本文を無視した子どもたちの恣意的で勝手な読みや、語彙上、文法上、音読等の不十分さから生まれる誤読を、教師がそのまま放置することは認められない。

俺はさっきサルトルが傲慢すぎると言ったが、しかし、鎌田には逆のことを言わねばならない。鎌田首治郎は、彼の貢献度に比して、あまりにも謙虚すぎる。

もし仮に、教室内の読みのアナーキーが抑止できたのだとしたら、それは別にイーザーの理論がそうなっていたからではなく、単に鎌田が暴力と、そして暴力の埋め込みであり、それ自体暴力であるところの規範意識の育成を鋭意がんばったからである。「イーザーの読者論において本文が消去されること」がないのは、イーザーが単にそう信じていたからである。教室内で読みのアナーキーは生まれないのではなく、鎌田が生ませないのである。誤読は存在するのではなく、鎌田が創り出すのである。お前らの勝手な「‐べきである」に、ヴォルフガング・イーザーを巻き込むな。

しかし、俺は別に、鎌田のことを批判したいわけではない。彼は悪いことなんか何もしてない。強いて鎌田の批判すべき点を挙げるとすれば、彼が理論家によるイーザーへの批判を自らの主観に引き寄せて解し、「理念の対立」として説明することで、彼らの仕事を辱めたことだが、俺なんかただのフリーターなんだから教育学のヤツが何を言おうが批評理論がなんだろうが知ったことじゃない。

もちろん、一般的に考えて暴力の行使は好ましいことではない。

そして子供の合意・承諾なしに子供の学力や素行を評価し、決めつけることは紛れもない暴力であるし、種々の不利益で脅して子どもの言動を制御することもまた紛れもない暴力であるが、鎌田は権限があるからそれを行使しているだけである。彼に権限を与えたのは国家であり、国家の主権は国民に存する。大多数の国民が教員の暴力を承認するなら、俺もそれに賛成する。賛成するというか、闘ってもどうせ勝ち目がないから文句は言わない。

俺が鎌田の論文への言及によって示したかったのは、

暴力が解釈のコントロールを行う上で覿面に効果的である。

というただそれだけのことである。

このへんで、黒ギャルとオタクサークルのたとえに話を戻しておくと、先のところで述べておいたように、お前らオタクは大声でがなり立てることによって、無関心な黒ギャルに、お前らの世界観を伝えることができる。しかしそれだけでは、本当に伝わっているかどうか、ということはお前らには解らない。彼女はただお前らのうるささだけを理解するかもしれないし、お前らの世界観を曲解してしまうかもしれない。

そんなときに非常に便利なのが、暴力である。

お前らオタクは、彼女のところまで歩み寄って、頭でも肩でも胸倉でもいい、とにかく逃げられないようにどっかを引っ掴んで、そして思いっきりぶん殴ったらいい。彼女が倒れたら馬乗りになって、もっといっぱい殴ったらいい。これを彼女が死んで、「ひとり」とカウントされなくなるか、彼女が諦めて「わかりました」とか「文学は人類の宝でございます」と言うまで続ける。そうして人類みんなに対して同じことをやる。そしたらいずれ人類は、みんな、ひとりのこらず、文学オタクになるだろう。

ちなみに屈服した黒ギャルの本心とか本音とか、彼女が本当はどう解釈したか、なんてことはもうどうでもいい。どうせ他人の気持ちなんか解んないんだから、面従腹背でもなんでも、顕れとして同じになるならそれでいいだろ。

もちろん、以上述べてきたようなことはたとえ話だから、実際にやるならもっとバレにくくて角が立たないように、具体的に言うと、教育がやってるみたいなのを真似したらいいと思う。**行使するほうも行使されるほうも暴力と気付かないなら、それはお互いにとって都合が良い。 **

とは言え、事はそう上手くはいかないだろう。だって、黒ギャルは逃げることができるから。お前らオタクサークルの暴力からも、学校の暴力からも、彼女はエクソダスすることができる。彼女を受け入れるコミュニティは無数にある。肌に合うやつに入ればいい。

でも、彼女がどこにも馴染めなかったら?彼女が法を含めたあらゆる規範を拒絶するとしたら?彼女が人型をしているだけの飢えたツキノワグマだったら?実は彼女はまるきりテッド・バンディだったら?

**――そのときは彼女が国家をエクソダスすりゃいいのである。そうすれば彼女は好きに生きられる。 **

ただし、それは、日本列島外への脱出と同義ではない。彼女は日本列島を脱出するのではなく、国家からの独立を果たすのである。ゆえに「日本から出ていけ」なんてお前らの言葉に、黒ギャルが耳を貸す必要はない。なぜなら、この細長い小さな島を「日本」と呼ぶのは、また大地を値踏みして切り売りするのは、またアホくさい紙切れが黄金と同じ価値を持つのは、そして少数者が多数者に従わなければならないのは、ただお前らのルールのうえでのことであり、彼女にはもう関係がないから。

つまり彼女は独立国家・黒ギャルであり、お前らにとっての侵略者である。したがって、

「出ていくのはおめえらのほうだろ」

彼女にはそう言い返す権利がある。彼女に権利を与えるのは、ほかでもなく彼女自身である。

 だが、今述べたようなこと――つまり個人が規範を拒絶し、全く好き勝手に世界を解釈し、自分勝手にふるまうこと――は、現実的に考えればさほどの脅威とは思われない。だって、個人の暴力よりも国家の暴力のほうが断然強いから。個人が国家以上の暴力を持つのは刃牙の世界ぐらいである。

官憲の圧倒的な暴力に打ちのめされながら、彼女ははたと気付くだろう。規範の内面化を拒絶したところで、暴力までは拒絶できないのだ。こうして独立国家・黒ギャルは、日本国の絶大な暴力によって叩き潰され、日本国の罪人として、日本国のなかに再統合される。

**しかし、結局のところ、強大な暴力や死の暗示といったものは、スラングや咳払い、アイコンタクトや嘲笑といったローカルな言語の上位種でしかない。通用する領域が多少広くはあるものの、やっぱり通用しない領域もあるのだ。 **

だって、もし暴力や死の暗示が全人類に対して例外なく有効であったなら、キリスト教の殉教者たちも、ヴァルハラを信じたヴァイキングたちも、搾取なき世界のために死んだ革命闘士たちも、爆弾を抱えて市場へ赴いた現代の宗教的テロリストたちも、この世に存在できたわけがねえから。彼らは現に存在したし、今だって存在するだろう。

**であれば、俺やお前らは仮に暴力を使ったとしても、他人の解釈をコントロールすることなどできないのだ。 **

正しい解釈は、規範と暴力が決める。しかし、暴力が有効でない個体も存在する。そんな個体の目からすれば、あらゆる解釈は、誤りであるという点において等価である。お前らは世界をネタに好き勝手な妄想を述べ立てる作家なのであって、真の読者は彼だけである。彼だけが世界の真の姿を理解する。解釈するのではなく、理解する。

だが、世界七五億人の彼が、みんなお互いにそう思いあっているのなら、みんな等しく作家であり、真の読者など一人もいないのではないか?

なお、以上長々と述べてきたような話はさして新しいものではないし、もっと上手に説明したものもあるだろうし、ないとしても全部妄想である。誤りや異論があれば言えばいい。俺はその指摘を受けて恥じ入ったり、考えを修正したりすると思う。

だが、そんなことやっててもしょうがない。文芸誌の新人賞の評論部門に投稿してくるような、根っこの部分ではお前らと何ら変わらない俺みたいなオタクと、ルールを守って楽しく議論したって意味がない。だって、それはただ、俺やお前らが共有している世界観をブラッシュアップするに過ぎず、外の世界には全く関係がないから。

あと黙ってるお前。冷笑だけしてるお前。声にもならないような陰口だけで満足してるお前。別に、馬鹿げた空想や誤解が動機になっていようが、お前の家燃やすぐらいのことは俺にも難なくできるし、太平洋戦争は戦争好きイデオロギーの人間だけが参加した任意参加の戦争ではなかったし、原爆の投下は全世界の人間の熟慮・熟議の末に行われたわけではなかった。

水道代になる