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    2019年の頭から春頃にかけて「ワーーーー!!!」と思って書いた文章です。思想系の話ですが大して難しくないし(当たり前のことしか書いてないから)、イラストとかも入ってるので、かなり見栄えがいい。「他人を皆殺しにするか/自殺するか」で迷ってる人に読んでほしいです。

最近の記事

『トイストーリー』について:アンディの《おもちゃ遊び》はデータベース消費か?

なんとなく急に気が向いて『トイストーリー』を見返してみたら、面白すぎて本当におしっこを漏らしちゃった。 あらすじとか概要については別に説明する必要ないと思う。『トイストーリー』つったら『トイストーリー』だし、だいたいみんな観てるし、観てないとしたらタイトル見た時点でこのページ開くのやめたと思うし。まあ誤タップでうっかり来ちゃった人のためにウィキのリンクを貼っとくので、興味があればどうぞ↓ それはそれとしてさっきの話だけど、ぼくは『トイストーリー』のあまりの面白さに、マジ

    • 【反商業・反読者・作家至上主義文学論】のために考えたこと

      【他人に読ませたいなら、他人の喜ぶことを書け】きみの恋人がきみの小難しくてクソ長い話をニコニコしながら聞いてくれるのは、別にきみの話が話自体として面白かったり興味深かったりするからではなく、単にきみの恋人がきみのことを好きだからである。もしも彼女がきみとは全く無関係の赤の他人だったら、彼女はきみの一言だってまともに聞いてはくれないだろう。 だから、もし特定の誰かに(とりわけ、きみの関心とは全く異なる関心を持ったひとに)きみの文章を読んでもらいたいなら、まずは関係性をつくる

      • 5. 「関係ない」ではいられない

        解釈学に意味がないなら(つまり解釈学がちんけな仲良しサークル内でのみ通用するローカルルールを解析するだけの学問であるなら)、反転した解釈学としての修辞学にも大した意味はない。 なにをどのように書いたって、他人がやるのは俺が書いたテクストからアナグラム作品を創造することなんだから。もうやってられない。 別に書くことなんてやめていい。実際、ものを書かずに死んでいく人間なんて山のようにいるし、ペンを持てないミミズだって、タイピングのできないオケラだって、声のないアメンボだ

        • 4の補論:暴力と規範について

          以下の文章は↓この記事↓の もし仮に、教室内の読みのアナーキーが抑止できたのだとしたら、それは別にイーザーの理論がそうなっていたからではなく、単に鎌田が暴力と、そして暴力の埋め込みであり、それ自体暴力であるところの規範意識の育成を鋭意がんばったからである。「イーザーの読者論において本文が消去されること」がないのは、イーザーが単にそう信じていたからである。教室内で読みのアナーキーは生まれないのではなく、鎌田が生ませないのである。誤読は存在するのではなく、鎌田が創り出すのである

        『トイストーリー』について:アンディの《おもちゃ遊び》はデータベース消費か?

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          4. 教室のルールとか関係ない

          ところで、前回述べた<追放>の両義性に関して、俺は興味深い事実を知っている。 それは国語教育学という変な学問領域では、この「誰もが好き勝手なやり方で本を読める/話を聞ける」という当たり前のことに<読みのアナーキー>なる大仰な名前がつけられ、あまつさえ抑止可能なものとして考えられているということである。 俺は大抵のことについて門外漢なので、国語教育学についてもあまり口出しすまいと思っていたのだが、しかし、そもそもド素人の門外漢が口出ししてはならないというようなルールは、門の

          4. 教室のルールとか関係ない

          3. 読解のルールとか関係ない

          ジャン=ポール・サルトルの『文学とは何か』が俺を驚かせるのは、<作家-作品-読者>という(かつては人を驚かせもしたが、今となってはバカバカしく思えるような)斬新な視点によってフランス文学史を概観したからではなく、サルトルが作家として信じられないほど傲慢で楽観的だからである。サルトルは言っている。 槌を用いて私は、箱に釘を打つこともできるが、隣人を撲殺することもできる。槌をそれ自身として考察する限り、それは私の自由への呼びかけではないし、私を私自身の自由に向き合わせるものでは

          3. 読解のルールとか関係ない

          2. 純文学論争とか関係ない

          文学作品とか批評とか、正直全部どうでもいい。別に不要論を唱えようとは思わないが、特に必要性を訴えようとも思わない。どうせ俺には関係ないし、どうでも好きにしたらいい。だから、1990年代の頭から2000年代の初めにかけて、マンガ編集者の大塚英志と文筆家の笙野頼子の間で行われた<純文学論争>もどうでもいい。 これは大要「社会(未定義)に対する純文学(未定義)の必要性」が争われたものと言えるが、俺は、この論争についてよく知らない。大塚英志の「不良債権としての文学」はネットにあった

          2. 純文学論争とか関係ない

          1. 太宰治とか関係ない

          太宰治はインターネットもコンビニもないような時代に生まれたろくでなしのうんこバカであって、彼をありがたがるような謂れは全くないし、お説教されるような筋合いも全くない。彼が何を考えていたとか、人柄がどうだったとか、何を言ったかとか、何を書いたとか、そんなことはもう一切どうでもいいし、知ったことじゃないし、全然関係がない。 太宰治は、俺と全然関係がない。ただし、この無関係さは、たとえば肌つやのいい黒ギャルや、生まれたてほやほやの新生児や、チベットの変な名前の高僧や、アマゾンの奥

          1. 太宰治とか関係ない