オーストラリア 高校編

15歳で行ったオーストラリア、クイーンズランド州サンシャインコースト。
現地の高校の受け入れ先が決まったのは公立高校の受験組と同じくらいのタイミングだったかな。
現地に日本人の女性がいて、その人にFAXで自分の意思を4枚綴って送ったのが正月明けの1月。
その時も私は楽観的で、もし行けなかったら就職しようと思っていた。
そのくらい日本の高校に行くこと、日本にいることに興味がなかった。(ここでは相応しくないので割愛する)

中学校を卒業し、6月末のフライトだった。日本は梅雨の真っ只中、ブリスベンに早朝に着く便で降り立ったのだが、寒い!非常に寒い。それが当時の印象。勝手に暖かい国をイメージしていたせいか冬服持ってねー。南半球は冬なのは知っていたけど、オーストラリアも寒いんだというのをその時知った。下調べは必要ですね。これは今の私にも言えることです。

オーストラリアの公立ハイスクールは8年生から12年生(日本の中学2年生から高校3年生)の一貫校で、新学期は1月末からが一般的です。
6月末という中途半端な時に行ったのだけど、オーストラリアの英語に慣れるため、冬休み明けの7月から12月まで9年生(中3)をオーストラリアでやり直すことになった。結果オーライ。
小学校が5歳だかに始まるクイーンズランド州、そして私は中3をやり直しなので、私の同級生はほぼ2歳下だった。1歳下が数名いたけど。
同じ学年にいると年齢差なんて気にならないものなのだ。
だから年齢はただの数字でしかない、と学んだオーストラリア1年生。

そしてオーストラリアに慣れた後に感じたこと、まず、一言。
日本の英語教育はなぜアメリカ英語なんだ!ということ。
戦後のGHQなど出されたら黙るしかないのだけど、アメリカ英語を崇拝しすぎではないか?
まず、今まで習ってきたアメリカ英語で話すと「ん?なんて?」と言った顔をされる。今でも忘れない、Becauseの発音。アメリカはビカーズが近いしそれを言ったらオージーから「ん?それ、ビコーズ。ここはオーストラリアやで」と大阪のノリのように直された。
あとはTOMATO🍅 トメイトーではなく、トマァトー。
はい、日本語に近いですね。ありがとう。
イギリスとアメリカとオーストラリアの関係はとてもユニークというかオーストラリアはアメリカを馬鹿にしているところがある。
そしてイギリスに対してはPOSHな(良い意味でも皮肉気味にも気取っている)イメージを抱いている人が多かったけど、実際オーストラリアからイギリスに移住するものもたくさんいたのも事実。クイーンエリザベスIIやロイヤルファミリーを愛している人も多かった。

オージーの家族と過ごしたこともあり、私のリスニングは3ヶ月で良くなり、半年で喋れるようになっていた。辞書をどこにでも持ち歩いていて気になる単語があればすぐ引く生活。成句、句動詞を覚えるのが楽しくて、辞書が一時期は友達か!と思ったくらい。16歳を迎えていた私の脳みそスポンジだったね。全て吸い取る。そんな私の英語のオージーイングリッシュ化はあっという間だった。

私が住んでいたところは、正直いえば、白人至上主義者が多いところで実際、Pauline Hanson(ポーリン・ハンソン)という政治家もいた。元はフィッシュアンドチップスを経営してた人。ホストファミリーも私と一緒に住むまではアジア人(非白人)は別世界の人間と思っていたと思う。でも一緒に住むことになって言われたことは
「これから君を見て気分を害すことを言ってくる人がいても、気にするな。ここはそういうところ(白人至上主義)だけど、言ってくるやつがアホなんだから」と。
"ニイハオ”と言いながら指で目を細くしたり、"Go back to China(中国へ帰れ)"と言われるのは基本、デフォルト。英語が話せるようになってからは
"You go back to England too(あんたもイギリス帰りー)"と言い返したりした。先住民はアボリジニだよ。強くなるのだ、海外生活。

高校の勉強、特に数学に関しては簡単すぎて数学のクラスを2クラス取っていたくらい。なぜならば、高3でおそらく日本の高1のレベルだったから。計算機を使うのが当たり前だったので9年生の時、紙に割り算、掛け算を書きながら解いていたら、計算の仕方を知っていると驚かれた。
歴史のクラスでは、日本では習わないことも教わるので、嫌な気持ちになることもあったけど、そこで思ったのはその国にあった教え方があるのかな、と。だから全て鵜呑みにはせず、気になったら色んな情報を入れることも学んだ。
向こうの専門的な授業で例えば料理のクラスは、実際自分がシェフになった気分で料理をし、クラスメイトをランチタイムに招待し、何を作ったかを説明したりと、実際シェフになったらあり得るだろうことを想定しながらできる授業でとても楽しかった。はりきりすぎて生クリームをミキサーで混ぜすぎて分離させてしまい、作っていたデザートのエクレアの生クリームがなかったのは今は良い思い出。

12年生修了2ヶ月前くらいだったかな。進学したい者は州の統一テストを受ける。そのテストと高校の成績によって大学が決まる。私が高校生だった時、クイーンズランド州はOP (Overroll Position)と言って1〜25でランク分けされる日本の偏差値みたいなものがそのテストで分かるシステムがあり、州内にある大学の学科別のレベルがわかる本があって自分のレベルにあった大学を選ぶか、OP1が最高、で25が最低なのだが、OP1から4を取ったものは大学から「うちに来ませんか」とオファーを受けたらしい。私はオーストラリアには残らず日本に帰ろうとも思っていたのだけど、進学組に入っていたので、受けた。12月になるとOPのランクが郵送されてくるのだけど私は16で中の下と中途半端なランクだったので、私が大学を選び、大学に申し込むと「はい、来てください」か「16なので1年違う大学で勉強してから編入申請してください」と言われた覚えがある。

結局日本に帰らずにオーストラリアに残ることにしたのだけど、場所はブリスベンではなく、「地元」サンシャインコースト。都会に行けないのか、と落胆したのは言うまでもないけど、海があるから良いかーと。日本でも田舎出身なので、このくらいがちょうど良いのだ。
そんな矢先、高校の時仲良かった友人が白血病で亡くなった。急だった。
高校の時、私が一人でいると一緒にいてくれた友人。一緒に色んな話をした友人。白血病になって2年くらい。数日泣いたけど彼は一生懸命生き頑張った。片思いの相手のことも教えてくれた。初めて、近くにいた人がいなくなることに喪失感がいっぱいだったけど、彼の分まで大学を頑張ろうと思えた。

つづく。


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