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辻仁成のブログから見える事象の捉え方

あの有名な作家の辻仁成を知っているだろうか。

コロナ渦の真っ只中、外出自粛中にTwitterのマネタイズを考えている時にTwitterを通して私は彼のブログに辿り着いた。

彼のブログは、彼と彼の息子とのフランスでの生活やそこで出会った人との生活の一部が切り取られ綴られている。

その中でも特に大好きな記事が

滞仏日記「人生に飽きないためにぼくが心がけている一つのこと」

この記事の中のあるフレーズ。

『現実の彼らとこの日記に登場する彼らは一緒でありながら、ぼくのフィルターを通すので、物語の一員みたいな役割を担っている。』

うむ。とても深い、深いようで、とても普通のことでもある。

人生における全ての事象は、目の前で起きている自分とは切り離された事象のようであって、それを認識する過程で必ず自分のフィルターを通している。

例えば、彼のこのブログは実際に起きたことを彼のフィルターを通して見ているので、彼のフィルターを通された物語に見えるが、実際にはそれを読んだ時点で自分(私自身)のフィルターを通っているので、もう実際に起きたこととはすでにかけ離れていることなのだ。

それでも依然同じ事象の話をしていることには変わりがない。

今ここにAさんとBさんがいたとして、言葉のキャッチボールをしているとする。

そこには共通の会話が成立しているようで、実はお互いにお互いのフィルターを通して認識しているので、お互いの頭の中に残される記憶ないし描かれる物語は異なるものになっている可能性が高い。いや、知らんけど。
異なっているのか、一致しているかの認識すらできない。それを言語で答え合わせしようとした時点でそこにはお互いのフィルターが存在する。

彼は、自身の綴っているブログを物語と言っているが、みんなの頭の中にある記憶(人生)も、一種物語のようなものだと思う。

いつでも自分のフィルターを通している限り、その自分の物語(人生)のテンションのアップダウンを作る要素は間違えなく事象ではなく、自分のフィルターなんだと。

学問的には分解できることだけど、日常的に分かっているようで言語化できなかったものをきれいな文章にしている言葉だな、と感心した。

『現実の彼らとこの日記に登場する彼らは一緒でありながら、ぼくのフィルターを通すので、物語の一員みたいな役割を担っている。』

そう考えると、心がどっと楽になる気がする。

あの嫌だったことも、怒ったことも、悲しかったことも、
自分がその感情を、結末を選択していたんだ、と。
誰も私を傷つけようとしたわけじゃない。
私の物語にエッセンスをくれただけ。

そう思うと、これから起こるどんなことにもどっしり構えられる気がする。

これから起こる事象に対して、どんな物語を付け足そうか?

そんなワクワクさえ感じさせてくれる、
私を励ます言葉の一つである。



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