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101.滞在記を書くことはトラウマを癒す

bonjour!🇫🇷 毎週金曜日更新のフランス滞在記をお届けします。今日は滞在記のもつ、「トラウマを癒す」という力について。

こうして長く滞在記を書いていると、人の記憶って本当に凸凹でこぼことしたいびつな形をしているんだなというのがよくわかる。つどつど、さまざまな体験をしていながら、いったん記憶の中に入ってしまうと、強く張り出した部分と、まったく目立たない部分とが形成されて、とてもいびつな形になるのです。

それで、タイトルにあるトラウマというのは前者のことと考えると、トラウマとは、その人の記憶の中でとても強烈に張り出した部分と言える。張り出したというより、あまりにも強い圧がかかって断絶されてしまったポイントといった方が良いだろうか。人の記憶、人生を川の流れに例えると、大きなショックがあって、それがあまりにも大きく強く感情を揺さぶるイベントであったために、川は持ち堪えられず、決壊してしまった部分である、とも言える。そこにはこぼれてしまった感情(水)があちこちに染み出し続けている。

そして、そのイベントのショックが強いものであればあるほど、川の決壊はすさまじく、それを止めるために、日常の本の些細なことすらもきっかけになって、何度も何度もそこへ戻され、川の流れを止めようとしてしまう。


わたしにとって、フランスで経験したロックダウンというのは、まさにトラウマと呼んで等しいものだと思う。


2020年5月。帰国して1ヶ月半が経とうとしていた頃、止むに止まれぬ衝動にかられてフランス滞在記を書き始めた。その時はどうしてこんなに「書かなくちゃ!」と思い、毎週毎週机に向かっているのか、まったくわからなかった。

しばらく書いていくと、とても大きなイベントの影に隠れた、とても些細な日常のワンシーンも思い出せるようになってきた。「書く」という行為を通じて、大きな思い出しやすいイベントをわきに置くことができ、その近くにあった小さなイベントに気がつく目が生まれたのかもしれない。

毎週毎週、だいたい1000-2000文字くらいで、滞在記を書く。その方法は、当時撮影した写真一つ一つを見返して、そこから感じたり、思い出されたことを言葉にする、というものだったけれど、大事にしていたのは「飛ばさない」ということだった。写真を見て、少しでも気持ちが動いたらどんな些細なワンシーンであっても飛ばさずに書く。すると、そこには一見わからなかった深い体験や感情があたかもわたしに気づいてもらうのを待っていたかのように存在していた。

大きなイベントも、小さなイベントも等しく、「淡々と」金曜日が来たら決められた字数の範囲で書いていく。
これがよかった。

続けていくと、最初は凸凹として不整地のようだった記憶の土壌がふっくらとかき回されて、過去に置き去りになってしまった感情や体験が、今この時とつながっていく感触があった。それに気がついた時、あぁそうか、滞在記を書くことは一つのトラウマを癒す方法になり得るのかもしれないな、と思った。

トラウマを癒す、というと、そのフラッシュバックする体験に直接向き合い、解放していく、という印象を持っていた。(現代ではちょっと古いやり方になっているけれど)。しかし、それはビビリのわたしにはストイックすぎて苦しい。いきなり大きなイベントに向き合えるほど、わたしは強くないのだ。けれど、滞在記を書くということは、とても時間がかかるけれど、わたしでも耐えられるトラウマ療法だなと思った。

時系列順に各ポイントポイントを振り返り、まずは過去と今とをつないでいく。そうすると、そこからパイプが伸びていき、不思議と、大きな断絶が起きてしまった部分とつながり感覚があった。そして、気がついたら断絶していた部分は補強され、全体の流れが回復しているのだった。

時は、2020年3月16日。わたしの33歳の誕生日。
マクロン大統領がテレビ演説で翌日からのロックダウンを宣言した日。
きっとここがわたしがトラウマを作ったポイントだ。
2022年の今、この日を想起すると、そこから出てきた感情はなんと、
「悔しい」だった。

せっかくのフランスで迎えた誕生日に、どこにも行けないなんて、悔しい。
滞在を終えようとしている時に、家族で労い合ったり体験を振り返ることができないなんて、悔しい。
お世話になった人に挨拶もできないまま逃げるように帰国するなんて、悔しい。
2歳から3歳という、娘と過ごしたものすごく貴重な時間が、日常の何気ない空の色に感動したあの一瞬が、夫の仕事の帰りに出かけたマルシェの匂いが、喧嘩したり笑ったりした日々が、ロックダウンという一つの大きなイベントにおおい尽くされてしまうようで、悔しい。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
・・・

今や、この未曾有の感染症に社会も適応し、あの頃の恐怖や不安は一見、過去のものになってしまったかのように思える。しかし、心の中では、2020年の3月16日が終わることなくまだ続いていて、そこにいるわたしは「悔しい悔しい」といまだ拳を握りしめていたままだった。
その悔しい、には悲しみも喜びも怒りも恐怖も詰まったとても複雑な色合いを感じた。悔しいという複雑な感情がわたしをここに導いてきてくれたんだなぁと感謝の思いが生まれ、思う存分、「悔しい」を握りしめてみると、ある瞬間からそれがパァッとほどけて、コンコンと涙が溢れてきた。

そして、驚くことに「悔しい」の後ろに、人から優しくされた出来事やその時の心の動きがよみがえってきた。そうか、時間はかかったけれど、いつか感じることができる時まで、この瞬間、この感覚を、わたしは大事に大事に握りしめていたのだと思った。

「悔しい」という感情が教えてくれたこと。2020年3月には実現できなかったことを、時を経て2022年の今のわたしの環境下で、どのように表現できるのだろう。きっと、それはここから始まるわたしの一つ一つの行為に注がれて、わたしのこれからを作る大きな大きな力になることでしょう。

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