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「命のやり取り」

「ニルスのふしぎな旅」ラーゲルレーヴ・福音館書店

 ここ数日間、風の歌を聞きながら、スウェーデンをひと巡りする旅をしていた。本物の旅ではない。物語の中の旅だ。空からニルスと一緒に眺めた風景が、絵巻のように心に広がる。今も爽快な気分に包まれている。  
本は時々、思いがけない贈り物をしてくれる。その不意打ちの喜びこそが、まさしく本を読む醍醐味だ。
最初はそれほど期待せずに『ニルスのふしぎな旅』を読み始めた。印旛沼のほとりで、渡りの鳥に出会ったのが再読のきっかけだった。鳥と共に空に舞い上がる話は、日本昔話にも、アラビアンナイトにもグリム童話にもある。様々なお話の糸を辿るうち、ニルスを思い出したのだった。
図書館で、分厚い上下巻の二冊を借りた。読み始めた途端、かつて読んだ改訂版の記憶がすっかり塗り替えられた。単なる冒険譚などではなく、これほど壮大な人生哲学の物語だったとは。
「国の地理を楽しく学びながら物語も楽しめる本を書いて欲しい」。国民学校の先生から依頼を受けた作者のラーゲルレーヴは、地理、歴史、動植物の文献を読み漁り、各地方を丹念に取材して歩いた。動物たちを擬人化するアイデアは、キップリングの作品からひらめいたそうだ。空から眺めるスウェーデンの風景が、綿密な鳥瞰図のようにリアリティに満ちているのは、取材の賜物だろう。多種多様な植物、鳥獣の生態描写、スウェーデンの産業や地形の特色が余す所なく書かれている。綿密でありながら決してうるさく感じられないのは、骨太の北欧神話や昔話、寓話がうまく絡めてあるからだろう。
生き物に注がれるラーゲルレーヴのまなざしは、温かくも厳しい。過酷な自然環境を生きる野生動物たちの覚悟がひしひしと伝わってくる。そしてその奥にあるのは、人間賛歌だ。人間への希望と期待。野生動物を通して、友情、勤勉、忍耐、誠意、勇気の大切さが繰り返し語られている。
主人公のニルス・ホルゲションは怠け者で乱暴者。動物を虐めたり、意地悪をするのが大好きだった。トムテに悪戯をした罰で、ニルスは小人に姿を変えられて、「弱者」として、野に放り出される。自然界では、何をするのも命懸けだ。知恵と勇気をふりしぼって仲間を助けたり助けられたりするうちに、ニルスは、ガンのアッカやガチョウのモルテンと固い友情で結ばれていく。
「製鉄所に火をつけなければ殺すぞ」と人間に恨みを抱くクマに脅され、ニルスが断わる場面がある。「命が惜しくないのか」とクマ。「うん、惜しくない」と答えるニルス。その時、銃口がクマを狙っているのに気づいたニルスは、自分を殺そうとしているクマに危険を知らせる。命を助けられたクマはニルスを放してやる。計算づくではない命のやり取りがそこにある。
魔法が解かれるラストシーンも同様だ。台所で殺されそうになったモルテンを助けようと、自分が小人である事を忘れてニルスは飛び出していく。その途端、ニルスは人間の姿に戻る。
 生きていく為に大切なものは何ですか? と作者が本の中で何度も問いかけてくる。自分の事しか考えられなかった傲慢で怠け者のニルスが、小さな体で成し遂げた通過儀礼の「旅」を通して、読者はその答えを知る事になる。人間に戻ったニルスとガンたちとの別れのシーンは美しく切ない。水際から空を見あげ、ガンたちを見送るニルスの胸中を思う時、長い旅を終えた後の寂寥感が、私の胸にも込み上げてくる。

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