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不思議の住処 8 (完結)

阿吽


 豪華な夕食を堪能し、風呂にも入り、読みかけの本の続きもそれなりに読めたところで、外へ出る。爽やかな夜風に当たりながら、虫の声を聞く。

 一人で暗い竹林を行くというのは、またどこかへ迷い込んでしまいそうだな、と思っていると、本来何もないはずの塀に、扉が現れた。阿吽の裏扉である。淡い橙の光が隙間から漏れ出ている。これはありがたいと思い、扉を開ける。

 いらっしゃいませ、といつも通りの優しい声がする。いつもとちがうことと言えば、額に花をつけた月が椅子に座っているということだろう。私がなぜここに月がいるのだろうかと考えを巡らせていると、月は一言、丘は飽きたからな、とこちらを見ることもなく呟いた。

 いつもの席に座り、約束通り、店主に温かいスープを頼む。ほとんど同時に裏扉が開いて、明石が入ってくる。一瞬見えた外は昼間のように明るかった。涼しげな表情はいつも通りだが、首筋には汗が滲んでいる。そして、高貴そうな女性を手のひらに乗せている。

 どこかの異界から帰ってきたのか。

 いいや、山奥から来た。この裏扉は、どこにでもあって、どこにもない、そういう扉だ。

 そういうものか。

 そういうものさ。

 なぜ向こうは昼なのだ。

 この世には日の沈まない場所もある、それだけのことだ。

 明石は私の右隣に腰を下ろし、珈琲とプリンを、と店主に言う。それから私の方へ向いて足を組む。明石の動作に巻き込まれて動いた空気から仄かに桜の香りがする。明石が山へ行ってきたことは嘘ではないと、わかる。

 明石は手に乗せた女性を私の方へ少しだけ近づけ、草祖草野姫だ、と言った。草祖草野姫は手のひらの上でくつろぎながら、ひらひらとこちらへ手を振った。品の有り余る見た目や雰囲気とは裏腹に、中身はなんらこの町の人々、つまりは普通の人間変わらぬようであった。

 やあやあ、君が佐川君だな。明石はほとんど私生活について話してくれないが、佐川という現世に馴染めていない不思議な奴がいるとは聞いていたのだ。そうかそうか、こんな顔をしておったか。

 こんばんは。いかにも、私が佐川です。しかし明石は私のことをそんなふうに思っていたのか。私からすれば明石の方がよほど不思議なやつだがな。

 あっはっは。全くその通りだ。この私、草祖草野姫も同意するのだから、明石は不思議なやつで間違いないぞ。

 草祖草野姫が大きな声でけらけら笑っていると、珈琲とプリン、それから草祖草野姫のためであろう小さな湯呑みに入った緑茶が運ばれてきた。

 明石はテーブルに置かれた人形遊び用の小さな座布団に草祖草野姫を乗せた。それから、静かにコーヒーを一口飲んだ。私は明石の服に桜の花弁がついているのに気づき、問うた。それに答えたのは明石ではなく草祖草野姫だった。

 明石、そこに桜がついているぞ。なぜ山奥には桜がこの季節に咲いているのだ?昨日私もそこを通ったが、どういう仕組みなのかわからなかった。そういえば先日の志那都比古神からの手紙にも花弁が同封されていたな。

 それはだな、明石の代わりに私が答えて上げようじゃあないか。志那都比古神は桜が好きなのだ。だから私に年中桜が見られる場所を作ってくれと頼んできた。私は願いを叶えた。だから山奥には枯れない桜の大木がいくつかあるのだ。そしてなにより、私自身も桜の木は住み心地が良いからな、気に入っているのだ。それから佐川君、君はもしや、笹舟に乗って流れてはこなかったか?

 はい、あれは私です。

 そうかそうか、やはりな。どこかで見たことがあるような気がしたのだよ。思い出したぞ。あの笹舟も、元々はこの草祖草野姫が移動するために作った特別丈夫な船なのだ。それから、あれも、私が生やしてやったのだぞ。

 草祖草野姫は得意げな笑みを浮かべ、小さな指で月の方を指した。そういえば、明石が月が体に花を咲かせられるように頼んでやるのだと言っていたな、と思い出した。

 月は自分の話題になったことに気が付き、こちらを向いて、この花、気に入ってるんだ、と言って笑った。それはよかった、神様冥利に尽きるよ、と、草祖草野姫は返した。その間佐川は無言で美味そうにプリンを頬張っていた。それから少しして、思い出したかのように言った。

 ところで佐川、最果ての地とは、どんなところだったのかな?

 あそこはとても恐ろしいところだった。とてもだ。

 そうかそうか、恐ろしいほどに楽しい、あるいは美しいところだったんだね。それはよかった。

 なぜそう思う?

 なんとなく、かな。君の表情を見ているとわかる。

 まったく、おかしなやつだ。

 お互い様でしょう。

 明石はそう言って珈琲を啜り、僕も行ってみようかなぁ、と呟いた。

夜 

 文學市三日目の夜、百鬼夜行の列を見た。先頭に立つのは、明石であった。普段私が関わる妖たちとはまるで違う不気味さがあった。文學市より大事な用事とは何であるか、私は知らない。ただ一つ、まだ不思議は続くのだという予感を乗せた夜風が、私の心を撫でていったことは間違いない。

前回↓

おまけ↓


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