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不思議の住処 3
町
夜の町へ繰り出した。誰も知らない病名を探しに。憂鬱の正体を探しに。名も知らぬ虫たちが群れる街灯沿いを、静かな風に吹かれながら歩いていく。
ふと、振り返ってみると、いつもと景色が違うように感じられる。しかし前を向くと、やはりいつもの道である。私は元来た道(ではあるが今は知らない道と化している)を行くことにした。
辿り着いた町は、凍てついていて、静寂に覆われている。花はもう死んでしまった。風はもう堕ちてしまった。人は、もう、どこにもいない。そんな様子で、ベッドの上で見る悪夢に、よく似ている。雪の代わりに、灰が降る。剥がれそうな、濃紺色の星空から、降る。
地面にたどり着いて、止まる。まだ、積もってはいない。うっすらと、やがて砂漠になるのだろうという気配だけを、漂わせている。
凍りついた家々は、ほとんどが暗闇を内包しているが、時々窓から淡い光を放っているものがある。一斉に進む秒針の群れが全世界の寝室にあった頃からずっと、自分は星の仲間なのだと勘違いして熱く光っていた電球の何割かが、未だに光っているのだろう、今はもう何もない部屋、昔は何かあったかもしれない部屋で、そうしているのだろうと想像する。
広い道路の中央を、綱渡りのようにふらふらと進む。足音は、しない。夜とか星とか夢とか灰とか、なんでもかんでも美しい、この世界で一人だけ、歩いて行く。ただ浸るための、何に対してかわからない優越感を抱いて、歩いて行く。
足元に落ちている張り紙を拾う。A4の大きさの、剥き出しのアスファルトが残る。そこに、灰が傷口を塞ぐように、舞い落ちる。張り紙の手書きで雑に書かれた、かろうじて読める文字に目を向ける。
『急募、何処かの星。基本百万円、一等星を捕まえたら二百万円の謝礼金!』
空を見上げる。目を凝らしても、宇宙の果ては見えない。けれども、確かに、流星が空を泳いでいるのが見える。もし仮に、目の前に落ちてきたとして、捕まえたところで、どこへ持っていけば良いのかわからない。どこにも書いていないし、そもそも、もう、誰もいないのだから。
チラチラと淡く点滅する街灯。ほんの少し滲んでいる霧。汚れた壁に映る歪んだ自分の影。しゃがみ込む。黒い塊が、時々瞬きをする。私は彼に話しかけることにした。
こんばんは。
こんばんは。
あなたは、誰ですか?
わたしは、あなたです。
ご機嫌いかがですか?
わかりません。
何をしているのですか?
くだらない逃避行です。
何から逃げているのですか?
わかりません。
星、みたいですね。
あなたも、ですね。
自分こそが、何かから逃げ惑っている星である可能性について、考えてみる。あるいは、流星群からはぐれて落っこちた、迷子の星かもしれないとも、考えてみる。
頭上には、所有されることを拒否しても皆に愛されていた、仄かに光る月。孤独を愛しているのに、愛されてしまっていた月。時々、本当に月は一つであるか、疑ってみたくなる。だってあれは、よく見ると、端が錆びついていて、月と呼ぶものにしては、あまりにも汚れている。
灰色の町、無音の中を歩いていく。公園に、満月が半分埋まっている。突き出した半分が、丘を作っている。空を見上げる。やはりあれは偽物であったか、と思う。本物の、落ちた月を撫でてやって、灰を払う。払っても、灰を固めたような素肌が現れるだけで、偽物のほうがまだ少し光っている分美しいとさえ思える。
果たして、これは本物の満月であろうか。これもまた、偽物ではないだろうか。あるいは本物だとして、しかしそれは過去のことであって、今、月としての役目を果たしているあれが、今では本物と呼べるのではないか。
かつては本物であったかもしれない石の塊に、言葉を、残そうと思う。何を書けばいいか、考える。考えることで過ぎゆく時間の長さなど、今は無意味だ。だから、心ゆくまで考える。爪で引っ掻いて、なんでもない、一筋の傷をつける。満足する。と、その時、月がしゃべった。
イテッ!
すみません。
私は反射的に謝罪の言葉を口にする。月は己の模様を器用に作り替えて、顔を浮かび上がらせた。人面月か、と思った。その顔は笑っていた。
冗談さ。人間のつけたちっぽけな傷くらい、痛くも痒くもない。
あの、ここは一体どこなのでしょうか。
境目だ。
境目?
坂を登ってきたのだろう?
ええ。
坂は、境目だ。夢でも最果てでも、何処へでも行ける境目だ。
戻るにはどうすれば良いでしょう。
道標を残しておかなかったのか?
ええ、何しろ気づいたらここにいたものですから。
この空を昇るしか、わからんなぁ。歩いて帰る方法なら、他を当たってみてくれ。
わかりました。
私は月と別れ、また、夜の町を歩き出した。静寂の中、自分の吐息だけがほんの少し音を立てる。寂しくも、どこか優しさを感じる空気を心地よく思った。しばらく行くと機械人形が、ハリボテの月を眺めながら、木造の民家のベランダに座っているのが見えた。
こんばんは。
こんばんは。
何をしているのですか?
待っているのです。
誰をですか?
主人です。
どんな方ですか?
わたしがソウゾウするには……。
ソウゾウ、ですか?
ええ、想像であり、創造です。
そうですか。
藍色の似合う紳士的な方です。
なるほど。
見かけませんでした?
ええ、見かけませんでした。
どこを探してもいないのです。
それは大変だ、と相槌をうちながら、ふと、月の言っていた言葉を思い出し、これだ、と思う。
夢の中はお探しになられましたか?
ああ、それは盲点でした。
機械人形が、納得したように頷くのと同時に、瞳が、翡翠色になって点滅する。もう、いなくなってしまうのだろうとわかったから、見送ることにした。
では、良い夢を。
ええ、あなたも。
機械人形は、笑った。そして、静かに眠った。
怒り方も泣き方も、忘れそうになる。その必要がないから、そうなってしまう、そんな気分だ。誰もいないから、そうなってしまう。みんなみんな、使いきれないままなくしてしまったリップクリームみたいに、さよならも言わないまま、いなくなった。それが昨夜のことだったのか、はるか昔のことだったのかも、忘れた。そんなふうに、思いそうになる。たった一夜の散歩にすぎないと、頭ではわかっているのに。
そういえば、私は帰り方を知らない。迷い人となってしまったことに、不安と、冒険好きな少年のような心とが、湧き上がる。帰り道を探さなければ、そう思いながら歩いていると、どこからか、小さな鈴の音が複数重なったような音が聞こえてくる。
耳を済ませていると、向こうから、黒い、重そうな外套を纏った少年がこちらへと歩いてきた。まだある程度遠い所にいるかと思ったのに、気がつくと目の前に立ち止まって、私の顔を見上げ、手を差し出している。
探しにいきませんか?
星、かな?
ええ、星、です。
何処まで行くのか教えてくれないか?
何処までも、です。
何故?
何処かへ舞い降りたはずですから。
少年はにこりと笑った。さあ、行きましょう、そう言って彼が私の手を引いて、先へ進もうかとしたその時、私は何かに掴まれて、体が宙へと浮き上がった。鱗のような冷たいものの感触に、ああ、私は龍に乗ったのだと気づいた。
うちの弟に優しくしてくださったそうで、ありがとうございました。
もしや、あの時の家守の……。
ええ、兄です。
ではあの子は家守ではなく龍の子だったのか。
龍の姿のままでは何かと不便ですから、そちらへは家守や蛇になって行くのです。さあ、しっかりとつかまっていてください。
私を乗せた龍は藍色の空を突き抜け、高く高く昇っていった。
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