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不思議の住処 6

最果て

 回廊を抜けると、大きな武家屋敷のような建物の中に繋がっていたのだと気づく。立派な庭、むしろ庭ではなく大自然と呼べるような草木に辺り一面が取り囲まれている。

 苔がむし、全体が薄く霞がかっているところに、すっきりとした光が差し込んでいる。奥には控えめな滝が優しく落ち、浅い小川となって緩やかに流れていく。澄んだ空気がひんやりと私の頬を冷やす。

 そこにいる人々は皆歌を口ずさんだり、ビードロを吹いたり、岩にもたれて心地の良さそうな寝息を立てていたりと、様々であり、互いのことなど微塵も気にしている様子はない。

 和室に置かれた琴は、ひとりでに糸が沈み音を奏でている。不思議、と思って眺めていると、猫のような足が生え、美しい音楽を響かせながら動き回り始める。あれは何かしらの付喪神であろう、と思う。

 古くから、八百万の神とか、大切に使われた道具にはやがて魂が宿るだとか言うものの、これほどに奇妙かつ愛嬌のあるやつがいるとは思いもよらなかった。

 少年はいくつかある岩のうちの一つに座り、こちらを見て、無言で微笑む。どうしたら良いかわからず突っ立っていると、一人の、私と近い年齢であろう青年が話しかけてきた。

 ここに来るのは初めてですか?

 ええ。そうです。

 ここは、いつ来ても、いつ帰っても良い場所です。何もないけれど、心が安らぐ美しい場所ですよ。

 たしかに、とても美しいですね。しかし、ここに長くいれば、戻った時に大変なのではないでしょうか。

 その心配はありません。時の流れとは無縁の場所ですから。帰ったら十年も二十年も経っていた、その間あなたは行方不明者として心配されていた、なんてことはあり得ません。

 そうですか、それは安心です。

 ここは、休息の場なのです。あなたも、ここで癒されていきませんか?ずっとずっとここにいてもよいのです。悲しみや苦しみは、捨ててしまってもよいのです。

 青年の話を、魅力的に思った。けれども、頭には、見慣れた我が家や石垣、商店街の賑わい、喫茶『阿吽』の珈琲の味、明石の飄々とした顔など、私の普段の生活の様々が思い浮かんだ。美しい場所とは、それが非日常であるからこそ良いのだと、そう思った。

 私はここにずっと、永くいることはできません。生きているだけで、そのほかの何もしなくても疲れてしまう。自分とは何者なのか、わからなくなる。人や世界や、自分の心が怖い。そういったことを思ったことは一度や二度ではありません。しかし、私には、永遠の方が恐ろしく思えてしまうのです。たとえそれが安らぎであってもです。

 そうですか。無理に引き留めることはしませんからご安心ください。たまには、ここへいらしてくださいね。

 ええ、どうしようもなく煮詰まった時には。

 その時は、何もかも忘れて、遊びましょう。どうです?あなたにはムジナの素質があると思うのです。

 遠慮しておきます。ムジナには苦い思い出がありますので。

 おや、仲間が何か失礼なことをしたようで、申し訳ありません。そういえば、この間、数名が志那都比古神に叱られていたような……。

 過ぎた今となってはなかなかに面白い体験だったと思います。

 そう言っていただけて安心しました。心の広い方で本当によかった。お詫びに、お茶とお菓子などいかがです?

 一生分の、だったらお断りですよ。

 まさか。ただの菓子ですからご安心を。

 青年は笑った。私も笑った。ゆったりとした、心地の良い会話を気に入った私は、和室へと上がり、二人で茶を飲み、菓子を食べ、ただ美しい景色を眺めた。作法など気にしなくて良いと言われたので、気楽に過ごした。

 どこにも時計がないため、一体どれほどの時間が経ったのか、わからなかった。しかし、ここで何時間、何日、何年過ごそうとも、元の世界にはなんの影響もなく、ここへ来た時と同じ日時に帰れるのだから、気にする必要はないだろうと思った。

 しかし、それはなんらかの不都合から逃げてここへ来たとしても、一時的な避難に過ぎず、問題はただ後回しにされるのみで残り続けるということでもある。いつか、必ず向き合わねばならぬということだ。じっとしていればやり過ごせるわけではないのだ。そう思うと、今現在何かしらの不都合を抱えているというわけでもないのに、恐ろしくなってきた。

 次第に、ここに居続ければ帰れなくなってしまうのではないか、正確には帰りたいという欲求を見失ってしまうのではないか、という漠然とした不安と、しかしこのまま微睡んでいるのも悪くないのではないかという、帰ることを望まない気持ちとが浮かんできた。

 連れ去られてしまえば二度と帰れない場所。しかし幸福の里でもある場所。全て、噂通りだと思った。これ以上全身の力が抜けてしまう前に抜け出そうと、立ち上がる。

 そろそろ、帰ろうと思います。

 もう少しゆっくりして行ってもよいのに。

 星を渡すことも、最果てがどんなところか知ることも、あなたと雑談することもできましたから、十分です。

 わかりました。帰りは船に乗って行かれるとよいでしょう。

 青年は、こちらへ、と言って私を小川の方へと連れて行った。そこには笹舟がひとつ、浮かんでいた。笹舟にしてはなかなかに大きく立派だが、当然人一人が乗れるようなものではない。流されないように、組紐で丁寧に陸と繋げられている。

 私が状況を飲み込めないでいると、彼は私に、さあ、つま先をつけてみてください、と言った。言われた通りにすると、私の体は小さく縮み、笹舟に収まった。青年は組紐を解いた。

 では、木霊にはお気をつけて。

 木霊?

 ええ、声を取られてしまいますから、目を合わせてはいけません。

 わかりました。
 
 それでは、良い旅を。

 私を乗せた小さな船は、小川を流れ始めた。青年と、黒外套の少年が見送ってくれているのが見えた。私は小さくなった全身を使って、手を大きく振った。

 底が見えるほどに透き通った水の、ゆったりとした流れに身を任せるだけで、それ以外の何もしなくても、船は進んでいく。転覆しないように慎重に水底を覗いてみる。美しい月白の鱗を纏う魚たちが優雅に泳いでいる。

 薄花色や女郎花色、あるいは槿花色の、絹のような長い尾鰭が揺れている。私の身体が縮んでいるせいか、魚たちは大きく、あの竜の背中を見ているのに近いような感覚に陥る。

 生い茂る木々の隙間から、柔らかい声が響いて聞こえて来る。ふふふっ。ふふ。ふふふ。うふ。笑っているようだ。これが木霊だろうか。私は下を向いて、その声が遠くなるまで、正体を探らないようにじっとしていた。

 声が遠のき、風に乗って桜が舞っているところに出る。辺りを見回すと、山の一部だけが、春めいているのがわかる。花見気分で眺めている間にも、花筏と共に船は進み続け、いつの間にかまた夏らしい緑に囲まれた。やがて木々の姿が遠のいた時、船は静かに止まった。

 船から降り、地に足をつけると、私の身体は元の大きさに戻った。帰りたい、そう思った。住み慣れた我が家が恋しくて、自然と早足になる。沈みかけの夕陽、藍色になりゆく空の下、田園の広がる町の真ん中を行く。こんなにも胸が躍る帰路は、初めてだった。

 家の天井を眺めながら、一日のことを思い出す。随分と長い一日を過ごしたように感じられる。夢であったかもしれないとも思えてくる。だんだんと、思考の速度が落ち、目を開けているのが面倒になる。

 心地の良い疲労が溜まっていた私はは、日頃より早く、深く、眠りについた。

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