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不思議の住処 5

少年

 灰とともに、ゆっくりと、私ははもう一度最果ての地に降り立った。先ほどと変わらない様子の暗く静かな町で、少年を探し始める。明石の言う通り、何かの気配が漂っているような気がしないでもないが、私にはよくわからなかった。

 いくつもの路地を抜け、自分が来た方向さえわからなくなった頃、古めかしい大型商業施設のような建物の端に、見覚えのある扉を見つけた。かけられた表札の灰を払う。そこはやはり、喫茶『阿吽』であった。

 扉を静かに開けると、いらっしゃい、と、優しいいつもの声と珈琲の香りがする。少し休憩でもと思い、いつもの席を見ると、そこには河童が座っていた。もしやあの時の、と思い店主に目配せをすると、店主は頷いた。

 その子ね、佐川さんが助けた河童です。佐川さんがここの常連だと知って、訪ねてきたらしいですよ。とりあえずお座りになってください。ご注文、お決まりですか?

 そうですね。では珈琲を一つお願いできますか。それだけにしておきます。今日は外せない用事があるのであまり長居はできませんから。

 わかりました。珈琲、すぐに淹れますね。

 私は店主に言われたとおり、河童の隣に座った。メロンソーダを飲んでいた河童は私の方を向いて、もじもじと人見知りらしい態度をとりながら、小さな声で話しかけてきた。

 あの、先日はご迷惑をお掛けしてすみませんでした。

 いやいや、怒ってなどいないし、迷惑でもない。

 あの日、お借りした傘で無事家まで帰れたのですが、壊してしまって返せなくなってしまったのです。

 あれはあげたつもりだったのだが。

 そうでしたか。しかし、きちんとお礼がしたかったのです。何か私にできることはないでしょうか。
 
 では、新鮮な魚を数匹、家に届けてはくれないだろうか。

 それなら任せてください!魚とりは得意です。

 河童は満面の笑みで頷いた。店主はその様子を見て、よかったね、と言いながら、私の前に温かい珈琲を置いた。私が火傷をしないように慎重に口をつけるのを待って、店主は口を開いた。

 ところで、佐川さんの言う用事というのが一体何なのか、聞いても構いませんか。

 ええ、むしろ私の方がそれについて尋ねたいことがあるくらいです。実は黒い外套を纏った少年を探しているのです。

 裏扉から来店されたので、不思議だとは思いましたが、そういうことでしたか。きっとその少年は最果てに住む隠し神でしょう。
 
 明石もそう言っていました。関わるべきでないとも。しかし明石にも、実際のところはよくわからぬようでして。

 あの明石さんでもわからないことがあるとは意外ですねぇ。

 ええ、ですから余計に気になってしまって仕方がない。しかし、明石は知ろうと思えば知ることができるがそうまでするほどには興味がない、といった感じでしたが。

 明石さんらしいですね。

 そういえば少し前に、僕はなんでも知っているわけではない、知っておくべきことと、知ってしまったことだけだ、とも言っていたな。

 知ってしまったこと、それは明石さんにとって良かったのか悪かったのか、どちらなんでしょうかねぇ。深く干渉する気はないですけど、明石さん、妙に寂しそうに笑う方ですよね。

 あの人は不思議な人だ。その不思議さを失ったら、消えてしまうかもしれない人だ。だから、放っておくのです。

 私も、それが良いと思います。

 店主は深く頷いた。その時、メロンソーダを飲み終えた河童が少しの会話の間を見計らってがま口の入れ物を取り出した。時計を見ると、午後五時半を指していた。

 店主さん、私、そろそろ帰らなければいけません。

 もうそんな時間か、お代はそこに置いてくれたらいいよ。

 はい、ありがとうございました。佐川さんも。では、失礼します。

 河童は席を立って、小銭をカウンターに置いた後、私と店主に挨拶をして、表扉から去っていった。開いた扉の隙間から少しだけ見えた世界は、いつもの竹林の奥の地で、夕暮れ時ならではの橙色の光に包まれていた。河童を見送り、私と店主は黒い外套の少年についての話題に戻った。

 黒い外套の少年と最果ての地についてですが、私も噂程度にしか聞いたことがありませんから、なんとも言えません。しかし姉さんなら知っているかもしれません。

 私と店主の会話を聞いていたらしい料理人が奥から、足音一つ立てずにゆっくりとこちらへとやってきた。それから店主の隣に立って、ぽつりぽつりと、言葉を紡ぎ始めた。話すのが得意ではないようで、その声はとても小さかった。

 あそこは綺麗なところです……。皆、親切です。生きているだけで疲れてしまうような人たちのための土地です……。

 行ったことがあるのですか。

 ええ……、随分と昔に、一度だけ。

 一度行けば帰ってはこられないと聞きましたが。

 一度行けば帰りたくなくなる、の間違いです。悪い噂をあえて流すことで、心地の良い場所を守っているのです。

 人避けのためにあえてそうしている、というわけですか。

 はい。

 その、最初の噂話がどんどんと形を変えて広まり、断れば復讐が待っている、とまで言われるようになったのか。

 はい。

 ではあの黒い外套の少年は何者かも知っていますか。

 あの人は、少年ではありません……。私たちよりもずっとずっと、長く生きておられる方です。会えるかどうかは、運次第です。

 ふむ、ではもう少し探し回ってみることにします。

 私はちょうど飲みやすい温かさになった残りの珈琲を一気に飲み干し、小銭を置いて立った。深く息を吸って、また、夜の町へ誘われて行く。どこからか、あの鈴の音が聞こえてくる。私の心は控えめに踊った。

 目を凝らし向こう側を見ていると、やはり少年が現れた。それからまた、いつのまにか私の目の前に佇むのである。私は持っていた星を差し出した。

 星、見つけたよ。

 ただの誘い文句のつもりだったのにな。本当に星を見つけてきてくれたのはあなたが初めてですよ。

 余計なお世話だったか。

 いいえ、とても嬉しいですよ。では、行きましょうか。

 少年が何もない空中に触れると、その部分が溶け落ちて、道ができた。それは木の板でできた回廊のようだった。少年の後をついて、足を踏み入れる。

 床の軋む音が、薄闇に響いた。


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