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不思議の住処 2


 雨が降る。庭の木々は、水滴を弾きながら、青々とした匂いを撒き散らしている。涼やかな風が柱の隙間から入り込んで部屋を満たし、冷やしていく。

 耳を澄ませ、雫の奏でる音に心地の良い孤独感を刺激された私は、こんな日ほど、外に出るべきだと思う。喫茶『阿吽』の、雨の日限定メニューのために。

 和傘を開き、濡れた石垣沿いを歩く。アスファルトの隙間から、何かの芽が生えているのを見る。木の葉の囁きが、頭上へと降る。いつもより客が少なく落ち着いた雰囲気の商店街を抜け、薄暗い竹林を貫く一本の道に入る。ひたすらに真っ直ぐ、行く。

 やがて密やかに佇む木造の小さな店に着く。重い扉を引くと、カランコロンと、鈴の音がする。いらっしゃい、と、優しい女性の声が、音楽のかかっていない静かな店内に滲む。

 いつも通り、カウンター席の一番端に座る。メニューの書かれた本を開いて、温かい珈琲と、雨の日限定のグラタンを頼む。すぐに奥のキッチンから調理器具の音が聞こえ始める。

 料理人は普段、料理をテーブルに運ぶ以外にはほとんど顔を出さないが、店主の双子の姉らしく、よく似ている。店主ほどの愛想の良さはないが、いかにも職人気質と言った雰囲気で、料理を褒めると照れ臭そうに微笑むのが、中々姿を見せないという特別感と相まって密かな人気者である。

 店主はいつも、珈琲マシンを動かしながら、物語を話してあげましょうね、と言う。それから、淹れたての珈琲を私の前に差し出し、本当にさまざまな話を聞かせてくれる。

 空が剥がれ落ちた世界で、誰かが作り始めた人工の天体の話。あるいは、夏に咲く、季節はずれの夜桜の下で始まる人ならざるものの宴の話。あるいは、誰もいない小さな国で、もはやそれは国ではないのだけれど、花が摘まれることなく咲いていて、月が消えることなく浮いていて、愛してるの分だけ穴が空いている、そんな国の話。それは、スプーン一杯分くらいの物語。誰かがキャンディの包み紙に隠した物語。

 しかし今日ばかりは、私が語り部になろう、と申し出た。先日の夜の出来事を誰かに聞いてもらいたかった。一通り話すと、店主は少し考えてから、口を開いた。

 話を聞く限り、それは河童の一種でしょうねえ。

 河童、ですか。

 礼には礼を、仇には仇を、それが河童です。

 たしかに、先日の礼がしたいと言っていたな。

 何か覚えは?

 うーむ、どうでしょう。

 では山童は?

 山童?

 ええ、河童は秋になると山へ移り住み、彼岸どきに川に戻るのです。

 ああ、それなら、春ごろに山の近くで出会ったことがあります。あの日は今日よりもひどい雨が急に降って、ずぶ濡れになってしまった子供がいたのです。明らかに人の子ではなかったが、とぼとぼ歩いているのを見て可哀想に思い、私の傘をその子にあげました。

 佐川さんは、例え相手が化け物であっても変わらず親切になさるのですねぇ。

 いえ、むしろ化け物であるからこそです。河童より、生きている人間の方がよほど恐ろしいでしょう。

 確かに。ごもっともです。河童と何かお話はされましたか?

 いいえ、随分と私のことを怖がっていたようだったから、あまり近づかないようにして、その子の近くに傘をそっと置いて、雨の中を走って帰りました。後にあの道は通り筋だと明石から聞きました。少女には、先日世話になった、と言われたので全く気が付かなかった。

 時の流れの速さというのは、生き物によって感じ方が違うということでしょう。

 そういえば、あの日の前日、明石が私に、明日は雨が降るぞ、と言ったから傘を持っていたのだった気がする。うろ覚えだが。

 明石さんはなんでも知っていますからねぇ。

 ええ、明石はなんでも知っているのです。不思議なほどに。

 河童はその傘の礼をしたかったのでしょうが、ムジナに騙されたのかもしれません。

 ムジナ、ですか。

 ムジナです。

 あれは穴熊だとか狸だとかさまざまに言われいるが、一体どんな姿をしているのでしょうか。

 色々、ですよ。狸でも穴熊でも、彼らが仲間内でムジナとして認めた者は皆ムジナです。ムジナとは、会員制の倶楽部と、その会員を表す名なのです。

 そういうことだったのか。通りで人々のムジナに対する印象が定まらないわけだ。

 ムジナたちは時々、人の欲や寿命を玩具にして、遊んでいるのですよ。

 人の命で遊びごととは、妖のやることはなかなかに大胆ですね。いやしかし、つけいられる隙がある人間の方も、それはそれで問題かもしれん。

 まあ兎に角、佐川さんが無事でよかった。

 もし私があの菓子を受け取っていたらどうなっていたでしょう。

 自分で寿命を決めなければいけなくなっていたでしょうねぇ。菓子を食べ切った時が己の寿命。食べるも食べぬもあなた次第、それをムジナは興味津々に覗いていた、というわけです。

 そうだろうとは思っていたが、あらためて聞くとゾッとする話ですね。

 私は冷えた背筋を温めるために、目の前に運ばれてきたグラタンを一口食べ、雨音を聴きながら静かに珈琲を啜った。

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