夜想曲(短編) 2
少年がたどり着いたのは、彼の背よりも三倍ほどには大きな、海月に似た半透明のきのこが生えている苔だらけの場所だった。すぐ近くには川が流れているらしく、水の音がした。
古びた祠に一本、手足の生えた和蝋燭が座っていて、目玉の形をした頭の火が瞬きをした。
「あなた、ランタンに夜道には気をつけろって言われなかった?」
はい、言われました
「この最果ての地に、夜じゃない道なんかないもの。ふふふ」
ずっと夜なのですか?
「そうよ、月は満ちたり欠けたりするけれどね」
降った星はどこへいくのですか?
「それ、赤い星でしょう?宇宙のさらに上の世界にいる誰かが線香花火か何かをしてるだけのことよ。流星に見えるのはただの火玉よ」
少年は鬼と一緒に見た線香花火を思い出す。そして考える。ぼくらが水溜りに映る宇宙に堕としたそれも、赤い流星擬きになって、下の世界に流れたのだろう。ぼくが見ている世界は、思っているよりもずっと狭いのかもしれない。
「他に聞きたいことはある?」
虹は?
「虹?名前は聞いたことあるけれど、きっとここにはそんなものないわ。朝だってそう。名前は知っているけれど、それだけよ」
虹がかかることなどないのなら、見つかったら会おうだなんて約束はやはり無意味だ。青年はまたねと言ったけれど、『ま』にも『た』にも『ね』にも、なんの意味もなかったのだ。
「とりあえず面白いものでも見ていきなさいよ」
面白いもの?
「ええ、とってもね。ふふふ」
祠と少年を取り囲むようにして、一気に火の玉たちが燃え盛った。盆踊りの曲が流れてきて、何処からともなく二足歩行の小さな、見たこともない生き物が何匹もやってきた。ぷぷらだろうか。少年は尋ねるために蝋燭を見た。彼女はもう消えていた。
おそらくぷぷらであろう生き物たちと火の玉は少年の目の前で円を作ってゆったりと回った。少年もそこに加わって、手を小さく動かしながら回った。音楽は祠からが聞こえているようだった。ぷぷらのうちの、菫色の瞳を持った一匹が少年の方を向いて器用に後ろ歩きを始めた。
「なんだ?お前。でっけえ狐だなぁ。狐っ子に用はないぞ」
ごめん
「にゃーはっは。謝りやがったな。おもしれーやつ。気に入った、もっと良いもの見せてやるぞ」
他のぷぷらたちも一斉ににゃはにゃはと笑って止まった。
「ほら、さっさと行くぞ」
菫は祠に空いた穴に飛び込んだ。それから次々に他のぷぷらと火の玉が続いた。最後の一匹が、少年の背中を押した。
「ほら、お前も行け。えいっ」
少年は背中を押された勢いのままに、祠に飛び込んだ。少年を押したぷぷらも後からついてきた。
景色は相変わらず、きのこと苔の中で、小さな木造の小屋の前に十五人ほどの、羽の生えた子供たちが集まっているのが見えた。少年は自分の背中を触った。何もなかった。
ぷぷらたちはあちこち動き回ってせっせと見世物の用意をした。絡繰人形の道化師を連れてきて、硝子の箱の中に入れた。木箱に片足で乗った彼は笛を吹いたり、果物でお手玉をしたり、風船で動物を作ったり、沢山の芸を披露した。
他にも、用意された机の上に珍しい宝石が並んだり、ぷぷらたちによる人形劇もあった。子供たちは手を叩いて喜んだ。それは初めのうちだけだった。
人形たちは皆自分達に似た子供の姿をしている。それを見ていた子供たちのうちの一人、一番幼いであろう少年がもう帰れないと悟ったのか、家族に会いたいと泣き出した。他の子もつられて泣き出した。
ぷぷらたちは紙芝居を持ってやってきた。それから泣いている彼らの前で読み始めた。誘拐された子供たちが自分達だけの町を作る物語だった。最後に読み聞かせの役を担っていたぷぷらがこう付け加えた。
「大丈夫。続きがあるんだ。この子たちはみーんな、おうちに帰れたんだ。君たちもおうちに帰れる」
子供たちはたちまち笑顔になった。ぷぷらも満足そうに笑った。それから紙を捲る担当のぷぷらが大袈裟に言った。
「さて、君たちが帰るまでにも、もう少し時間があるの!ぷぷらさんたちと面白い絵本、もっと沢山読みたいかな?」
子供たちは読みたい!読みたい!と一斉に騒ぎ始めた。
「よし、任せな。みんなこっちにおいで!」
ぷぷらに続いて、子供たちは列になって暗闇の奥へ消えてしまった。その瞬間、ぷぷらの口笛がかすかに聞こえた。菫がぼくの隣でぼそぼそ呟いた。
「あの子たちみたいな迷い子には初めから帰るところなんてないんだ」
少年は狐面をくれた爺に感謝した。それから、人形たちを見た。彼らは笑っていた。無理矢理な感じがした。少年はその不安定な表情を美しいと思った。助けたいけれど、今の状態が彼らの一番綺麗な姿であるような気がして、だからどうしてあげたらいいのかわからなかった。菫は自分に言い聞かせるようにまた一言呟いた。
「我々は悪くない。人間の方が悪いんだ……」
どうして?
「我々は、昔はもっと沢山いて、ずっとこの森で隠れて暮らしてきた。だけど人間はそれを見つけ出して食う」
きっと爺は妖怪だから、ぷぷらと人間の関係については詳しくない。だからぷぷらは悪い奴らだと、そう思っているのだろう。少年は自分が狐面を被って自分を守ろうとしていることが卑怯なことなんじゃないかと思えてきた。
ごめん
「にゃはっ、また謝りやがった。やっぱりおもしれーやつだな。人の子意外に見世物を披露したのはお前が初めて、そういうことにしておいてやる。他のぷぷらたちは阿呆だからお前の正体に気づかない。もうお別れだ。できれば今夜のことは忘れてほしくない。あとぷぷらは食うなよな」
わかった
「わかったなら、さっさと行きな」
ありがとう
「別に、ただの気まぐれだ。次会ったらお前を殺す」
わかった
「それは分かったらダメだろ。もうこんなとこ来るんじゃないぞって、そう言ってあげてるのにさ。他の子どもたちは狐っ子のふりなんてしないから、ぷぷらたちにはみんな一目で人の子だってわかる。つまり、俺一匹の力じゃどうしようもないんだ。でもお前は違う、逃してやれる。お前、最後に一つだけ教えろ。……俺たちの復讐は間違っているか?」
わからない。
「俺もそう思う。人間にも、何か事情があるのかもしれない……。そういえば一度だけ、ちっこい人間みたいな姿になって帰ってきたやつらがいたな。俺は喜んだが、ほかのやつらはみんな、あいつらは仲間じゃない、我々を揶揄ってるんだ、そうじゃなくても姿の変わった奴を仲間にはできないと怒った。それでも俺は、まだみんなが帰ってくると信じたい」
菫は空を見上げてため息をついた。それから何度も瞬きをしながら、静かな声で話を続けた。
「信じるってのは都合が良すぎて、時々たまらなく辛くなるな。それに比べて、お前ら迷い子のことはみんな忘れてしまう、誰も待っていない。それは俺からしたらとっても優しいことなんだぞ。お前は良くも悪くも自由だ」
そうなの?
「そうだ。だけどそれがお前の幸せかは俺には決められない。そもそも、幸せじゃないからお前は最果ての地に来たはずなんだ。この世界に幸福に満ちた場所なんかない。でも、だからこそ、お前はこの地を好きなように歩いてみればいい」
わかった
「俺たちはきっとこれからも、人の子を隠す。俺たちだって滅びるわけにはいかないからな。これ以上人間が増えるのはまずい……」
菫は少年の方へ向き直した。困ったように、ほんの少し首を傾げて、寂しそうな顔をした。
「今は無理でも、いつか人間はぷぷらを食うのをやめてくれるか?俺を許してくれるか?」
わからない
「お前はどうだ?」
許すよ
菫は寂しそうな顔のまま、笑った。
「そうか。お前にはあんまり俺たちのこと、嫌いにならないでいて欲しい。これでもお前のことは気に入ったんだ。そうだ、お前には帰るところがあるのか?迷い子はみんな、どこにも帰れないはずだ」
ないよ、どこにも
「そうか。でも、やっぱりこんなところには二度と来るなよ。もっと良いところに行け。まあ、俺だけはお前のこと、忘れないでいてやるよ」
ありがとう
「そんじゃあな。気をつけて行けよ」
バイバイ
少年は狐面を外して、また独りで歩き出した。歩きながら、考える。ぼくの方こそ、一人の人間としてぷぷらたちに許して欲しい。ぼくの頭上で、人間という罪が踊っているみたいだ。あんまり良い気分じゃない。
許さないと誰かに断言されれば、少しは気が楽になるかもしれない。許すという行為は、罪を生む行為だ。例えぼくが何もしていなかったとしても、誰かが勝手にぼくを許せば、ぼくは間違いなく何かの罪を犯し、それを許された人として生きることになるのだから。それならば、ぼくもぷぷらを許すべきではなかったのかもしれない。何も、判断すべきではなかった、と。
ぷぷらとぼくは、出会い方が違ったら、もしぼくがぷぷらだったら、或いはぷぷらが人の子だったら、もう会えないなどということはなかったかもしれない。ぷぷらたちの集合体と人間たちの集合体は、きっと仲良くなれないからぼくとぷぷらももう会えない。少年は、そう当たり前のように思ってしまうのが悔しかった。
虹を探す青年のように独りぼっちな方が良いのだろうか。兎に角、生き物が集合体として一つの意識を持つことは、ある一定の規模を超えると歪み、不健康になるということだけを確信し、歩いていく。
少年は川のそばについた。赤、青、黄、黒の帽子を被った小人たち四人が、人形が乗るのにちょうど良い大きさの屋形船を川の端に繋ぎ止めて休憩していた。彼らの半袖のシャツから、球体関節の肘が見えた。どうやら小人ではなく、人形のようだった。赤帽子がリーダーらしい。青帽子と目が合った。
「少年か、よかった。終末堂の大人たちかと思って焦ったよ」
しゅうまつどう?
「そういう名前の食事処があるんだ。私たちは昔、そこで働いていたんだけれどね、仲間の元へ帰ろうと言って飛び出してきたんだよ。彼らは私たちのことを覚えていたけれど、過去の私たちと今の私たちが同一の存在だと信じてはくれなかった。たった一匹を除いて。だからこうして旅をしている」
何処へ行くの?
「私たちはね、幸福の街に行くんだよ。どこかにきっと幸福が降り注ぐ街があるはずなんだ。だけど君に出会ったから、もう少し休憩を延長しよう。そうだ、君は知っているかい?明けない夜はないって言葉。夜が明けたら月や星の代わりに太陽ってやつが出てきて朝になってしまうらしいんだ。もし本当に夜が明けるなんてことがあったら、星が見えなくなってしまう。あの一番明るい星を頼りに旅をしている私たちにとって、それはとても恐ろしいことだ」
ここはずっと夜だよ
「誰に聞いたの?」
和蝋燭
「へえ、和蝋燭か。珍しいね。彼女たちは数本しかいないから、滅多に会える存在じゃない。そもそも、火に魂が宿ること自体、珍しいことなんだ。私も一度しか会ったことがなかったけれど、彼女たちは物知りだった。きっと正しいね。ありがとう」
青帽子は満足気に頷いた。少年は迷った。朝を知らない彼に、本当は夜より朝の方が良いとされていて、明けない夜はないと言う言葉は前向きな意味を持つのだと説明するかどうか迷った。そして戸惑った。どうして自分は朝や太陽が何であるかを知っているんだろうか。
黄帽子があっと叫んだ。
「あれを見て!沢山の火が流れてくるわ!」
川の流れに逆らうようにして彼女が指差す方を見ると、確かに柔らかな光がいくつも流れてきた。灯籠だった。赤帽子がそれを眺めながら微笑んだ。
「あれはね、海へ出て、別の地に行くのさ。迷い終わった人たちだから。君みたいな人間は普通ああやって、生まれ変わっていく」
ぼくと一緒に汽車に乗ってきた人たちも?
「もちろん。catastrophe駅の門では、みんなの記憶が宿った瞳が渡される。幸福だった時のことばかりさ。それを抱いて、みんな流れていく。もう一度迷う必要がある人は、来た時と同じ瞳のまま、流れていく。そしてやり直すために、ゆっくり過去を忘れていく。海へ出たら、みんな行くべき土地へ行く。ただそれだけのことさ」
ぼくは迷子なんだ
「そうだろうね。ここには迷い続けている子供と諦めた大人しか来ない。終末堂のお客さんもみんなそんな人たちばかりさ。ここは忘れられた土地だ。いいかい?君が君を含む世界のことを忘れたんじゃない。君は世界に忘れられてしまったんだよ。ああ、言い間違えた。君は世界に忘れられてしまいたかったんだよ。きっとさ」
君たちは?
「ボクたちかい?ボクたちはね、ずうっと忘れられている。覚えてもらったことがない。つまりはね、存在していないのと同じことだ。この地に棲むやつらはみんな、仲間内だけの記憶によって、なんとか姿を保っている。外の世界の奴らは、ボクらのことなんか永遠に知らないだろうさ。さて、そろそろ行こうかな」
赤帽子は仲間たちに声をかけて屋形船に乗り込んだ。最後に乗り込もうとした紫帽子は何やら腕を体の前で、何かを抱えるように曲げていた。けれども、彼は何も持っていなかった。もしかしたら、透明な何かがそこにはあるのではないかと疑ってみたが、彼の腕の中の空間は大きくなったり小さくなったりする。つまり彼は何かを抱いているふりをしている。
何持ってるの?
「何って、とっても大切なものだ」
見えないよ
「見えないだって?馬鹿には見えない宝物なだけだ。ちゃんと俺は抱えているぞ!おかしなことを言うな!」
どうして怒るの?
「別に怒ってなんかないさ。奪われたら困るから守っているだけだ」
何を持っているの?
「だからとっても大切なものって言ってるだろ。大切な……。まあ兎に角とても大切な何かだ」
紫帽子は最初から何も持っていなかったのか、それとも大切に抱えていたはずのものをいつの間にか失って、忘れて、抱きしめていた腕の形だけが残ったのだろうか。奪われるはずのない透明を守る彼の仕草をじっと見ていた青帽子が口を開いた。
「……少年が言ったように、実は私にも君の宝物が見えない。みんなも本当は見えていないんだろう?もうやめにしないか。幸福の街に向かったって、本当にあるかわからない。いつ着くかもわからない。この辺りでどうにか、良い暮らしができないだろうか」
「俺の宝物が見えないだって?お前も?おかしなことを言うな。頭が狂っちまったんじゃないか?」
「そうよ、紫帽の宝物はとっても大切なものなのよ。その存在を消すなんて、そんなのだめよ」
「ボクも黄帽の言うことに賛成だよ。青帽は病気になってしまったんだ」
「いや、私は病気なんかじゃない。君たちは過去に私と同じことを言った白帽や桃帽にもそうやって病気だと決めつけて船から降ろした。そっちの方がよほどおかしいんじゃないだろうか。私たちはありのままを受け入れるべきなんだよ」
「何を言っているのかわからないよ。兎に角、病気が移ってはいけないから、君とはお別れだね。悲しいけど、ボクには治してあげられないから。さよなら」
赤帽子、黄帽子、紫帽子は一斉に青帽子を川の中へ突き落とした。青帽子は、その帽子だけを残して落ちた。そのままどこかへ流れていった。
船内の帽子たちは何事もなかったかの様子になった。黄帽子が残された青いとんがり帽子を拾って首をかしげた。
「あら、この帽子は誰のかしら?不思議ね。私たち、ずっと三人で旅してきたのに。捨てる?それともあなた、これ要る?」
彼女は少年に帽子を差し出してきた。少年は頷いて受け取った。赤帽子が船からもう一度降りてきて万歳のポーズをした。だから少年は彼の脇の下に手を入れて持ち上げ、肩に乗せた。彼は少年の耳元でひそひそと話した。
「いいかい?紫帽はね、きっと何も持っていない。そんなのはみんなわかってるのさ。本人もね。だけどね、さっきも言ったように、ボクらは仲間内で観測し合うことでここにいるんだ。一度在ると決めたものは信じ続けなきゃ。それがボクらのルールだ。ルールを守らない奴のせいで自分の存在まで揺らいじゃうのはごめんだもの。君も青帽みたいに初めからいなかったことにされたくなければ、ボクらのことは放っておいて。救わなくてもいい、肯定しなくてもいいからさ」
少年が返事をするより前に、赤帽子は肩から飛び降りて、屋形船に戻った。少年は船に近づいてしゃがんで、紫帽子の腕の中を除いた。彼は少年を睨んだ。少年は少し微笑んだ。
それ、素敵だね
「ああ、素敵に決まってる。大切な大切な俺の宝物なんだからな!お前もやっとこれの良さがわかったみたいだな。もう見えないだなんて嘘はつくなよ!そんじゃあな!」
いってらっしゃい
紫帽子は格好つけた様子で手を振ってきた。他の二人も小さな手を大きく振ってくれた。そのまま流れていった。嘘を言っているのはどっちだろう。ぼくが余計なことを言ったから青帽子は居なくなってしまったのだろうか。少年は手のひらに乗った小さな帽子を見つめる。
これがなければ、青帽子がいたことなんてなかったことにしてしまっただろうか。彼らに宝物なんてない、幸福が降る街なんてないんだって言い続けたら、悪者になってしまっただろうか。どうするのが正解だったのだろう。
結局、赤帽子が言うように、救いなんて初めから求められてはいないのだから、どうしようもないというのが答えだけれど。彼らは夢見ている。初めに出会った挨拶屋の青年と同じように。きっとその夢は綺麗だ。終わりがないことも、他者が終わらせようとすることにも、どこにも救いなどない。けれども、それ自体が彼らにとって救済になり得る未来があったらと願うくらいのことはさせてもらおうと、そう少年は思った。
つづき
前回
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