見出し画像

不思議の住処 7

日常

 
 昨日の長い一日のせいか、起きて時計を見ると昼過ぎであった。着替えや食事を済まし、出かける準備をする。夢の途中でないことを確かめるために、誰かに会おうと思う。

 縁側から見える庭がいつもより生き生きとしている。日が高く登り、金色を半透明に薄めたような光が包んでいて、神聖さを感じさせるほどに輝いているからだと、理由を考えてみる。

 眩しさに目を細め、心の奥が漣のように揺れるのを感じる。日常とは、美しく、儚く、時に人の手には負えないものなのだと、以前から知ってはいたが、今この瞬間、より自覚的になる。この胸の痛みが、己の精神の成長に伴う正当な症状であることを願う。

 玄関の扉を開けると、足元には氷漬けにされた川魚が数匹小さな桶に入っているのが置いてあった。約束が果たされたこと、ささやかな交流が優しさに満ちていることを、素直に嬉しく思う。

 同時に、人ならざるものの純粋さに触れることで、人間の、というよりかは私自身の、隠しきれない醜さが浮き彫りになるようで、少々落ち込みもする。

 魚を台所まで運び、冷蔵庫に片付ける。今晩の夕食は、少し豪華なものになりそうだと思いながら、家を出る。

 町は日に日に夏めき、活力を増しているような気がする。たっぷりと絵の具を塗り込んだような明るい青の続く空、呑気に人の世を浮き流れる純白の雲。

 アニメーションのような、つまりは現実を超えたような夏らしさが、私の心を躍らせる。滲む汗を大袈裟に拭って、歩き出す。

 商店街の駄菓子屋の前に子供たちが集まっている。賑やかな話し声を発するその群れを眺めていると、見覚えのある少女の姿に気がつく。少女もこちらに気がついて、丁寧にお辞儀をしてくる。

 彼女の服のポケットから少し、シダが見えた。いつぞやに明石が、河童はシダを使って化けるものだ、と言っていた気がする。兎に角、河童というのはこうも人の世に馴染めるものなのかと感心する。私も今朝の魚の礼を込めてできる限りの笑顔で会釈をし、見慣れた道を行く。

 しばらくすると、朱色の立派な鳥居が現れる。昨日の池はどうなっただろうかと思い、寄り道をすることにした。鳥居をくぐり、石の階段を登っていく。木漏れ日の模様がそのまま整えられた石の並びに映るのを見ながら行く。

 登り終えると、夏祭りの提灯と風鈴が等間隔に飾り付けられていて、数人の参拝客がいる。祭りの日がいつであるか知らないが、もうそんな時期か、とは思う。厳然とした態度で佇む御神木のそばで立ち止まり、仰ぎ見、静かに見惚れ、そこを過ぎると池がある。

 透き通った水面の控えめに揺れるそこには少しばかり花が浮いていて、多様な模様を背負った錦鯉たちが優雅に泳いでいる。ここは裏稲荷ではなく、いつもの稲荷なのだろうと確信するが、私には池以外の違いがほとんどわからない。

 辺りを見回すが、明石の姿はどこにも見当たらない。私の目的といえばこの神社の様子を見ることであって、明石に会うことは二の次であるのだから、明石が留守にしていたとしても、困ることはない。

 引き返し、階段を降りる。鳥居をくぐり、さて、商店街に戻ってアイスクリームでも食べようか、と思い立った時、こんにちは、と声がした。声のした方へ向くと、喫茶『阿吽』の双子の姉妹が立っていた。

 二人とも、何やら重そうな車輪付きの鞄を引いている。赤と青の対照的な着物の色が華やかで、夏めくこの頃によく合う。私に挨拶をしてきたのは店主の方らしく、料理人は店主の一歩後ろから、控えめに会釈をした。私も軽く頭を下げ、店の外で会うなんて、珍しいですね、と店主に言う。

 そう言われてみれば、確かに、珍しいですね。

 何をされていたのですか?

 妹と一緒に文學市に行ってきたのですよ。

 ああ、そういえば今日から三日間の開催でしたね。去年は明石も行って大量の本を抱えていたが、会いましたか?

 いいえ、今日はお会いしませんでしたよ。何やら用事があるとかで、最終日の午前中にしか行けないとおっしゃっていましたから、てっきり祭事の準備で忙しいのだと思っていました。しかし稲荷にもいらっしゃらないのだとしたら、また異界か山か、でしょうかねぇ。

 あるいは、我々の全く知らぬ土地かもしれません。

 それは大いにあり得るお話ですね。明石さんなら、何処へでもいけそうですからね。

 ところで、今日は店はお休みですか?

 いえいえ、夕方から夜中まで開けますよ。そういえば佐川さん、常連なのに夜の阿吽には来店されたことがありませんよね。

 たしかに、そうですね。では今夜お邪魔させていただこうかな。

 ぜひぜひいらしてください。温かいスープを一杯無料でどうぞ

 それはありがたいです。とても。

 では私たちはこれで失礼いたしますね

 はい。後ほど。

 姉妹と別れた私は、商店街でアイスクリームを買い、食べ歩きながら、いつもと違う道を通り、遠回りをしてゆっくりと帰った。

 しかし、河童にもらった魚が待っているのだ。途中で徒花に心惹かれたり、蝶々のはためきに誘われたりしたとしても、夕食のために必ず日が沈む前に家に帰らねばならぬ。味噌汁と塩を振った焼き魚、少しの漬物と炊き立ての白米。

 あゝ、早く家に帰らねばならぬ。

つづき↓

前回↓


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?